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2026年6月12日 (金)

人の見方 4

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

では、一つずつフィクションの「化けの皮」を剥がしてみましょう。

フィクションとは「立場」のことですので、立場を変えてみて、それでも相手との間に上下関係があると思うかを想像してみます。

・組織内での上下関係(上司、部下の関係)
 あなたの上司のAさんまたは部下のBさんがあなたの同僚だったとしても、AさんまたはBさんとの間に上下関係があると思うか。

・時間を根拠にした上下関係
 先輩(年齢や入学・入社順・在籍期間が自分より早かったり長かったりする人)のAさんまたは後輩(その反対)のBさんがあなたの同輩(同年、同期、同級)だったとしても、AさんやBさんとの間に上下関係があると思うか。

・資格の有無による上下関係
 あなたもAさんも共に資格者、あるいは共に無資格者だと考えたときに、Aさんとの間に上下関係があると思うか。

・男女間の上下関係
 異性のAさんがあなたと同性だったとしても、Aさんとの間に上下関係があると思うか。

・売手と買手の間の上下関係
 自分とAさんとが売手と買手の関係(あるいはその逆)でないとしてもAさんとの間に上下関係があると思うか。

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2026年6月11日 (木)

人の見方 3

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

もちろん、専門業務にはその遂行のための原理原則があります。専門的判断は資格者のみが行えること、スタッフは資格者の指揮命令の下でのみ専門業務のサポートを行えること、等です。

この原理原則の下では資格者とスタッフとの間には上下関係があると言っても良いでしょう。

しかし、資格者組織は専門業務だけでなく、様々な業務で成り立っています。例えば組織運営(マネジメント)です。如何に有能な資格者でもマネジメントに長けているとは限りません(資格要件にもそれらは含まれません)から、資格者法人を構成員にとってより良い組織にするためには、専門業務における原理原則とは別の組織設計理念が必要になって来るのです。

さて、少し話が細部に入り込んでしまいましたので、本筋に戻します。

要は、上下関係とは(生まれついての人の価値の対等さという純粋で美しい概念ーであると私は思いますーにまで思いを致さなくても)全て人間が作り出した「虚構」(フィクション)であることは直ぐに分かり、化けの皮を剥ぐ(対等さに気づく)ことができます(できるはずです)。

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2026年6月10日 (水)

人の見方 2

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

上下関係には、必要なものもあります。例えば組織内での上下関係即ち指揮命令系統です。これは組織運営の必要上、人が敢えて作り出す上下関係です。指揮命令を下す役割を与えられた人が役職者で、「上席」と呼ばれます。

これの他にも上下関係には様々なものがありますが、いささかこれとは性格を異にします。

・時間を根拠にした上下関係
 年齢や入学・入社順・在籍期間(先輩・後輩)など。

・男女間の上下関係
 男女間の制度的な上下関係はほぼ撤廃されていると思いますが、社会的、因習的、心理的な上下関係はまだまだ多数残されています。

・売手と買手の間の上下関係
 商品やサービスにお金を払う買手が売手より上位だという考えを、時には売手側までもが持っていることがあります。

・資格の有無による上下関係
 資格のある人とない人との関係を上下の関係だと考えます。問題はこの考えが資格を離れたところでも上下関係を維持する方向に働く嫌いがあることです。例えば組織の指揮命令系統でも資格者が資格のない人の上位に置かれるべきであるという考え方です。
 しかし・・・。

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2026年6月 9日 (火)

人の見方 1

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

私が最近多少興味がある「人の見方」(厳密には人そのものの見方というよりは人と人との関係についての見方ですが)に「人はみな対等である」というものがあります。

この見方で自分が人や世の中を見ることはもちろん、誰かがこういう人の見方をしているのかどうかを考えてみることに、結構面白味を感じています。

これは、人はこの世に生を受けた時、人として何の序列もなくその価値は対等である。それは本質的なものであり、人が成長して行っても変わることはない、という見方です。

こういう「人の見方」つまり「人間観」が身についている人からすれば、そんなことは当たり前のことなのでしょうが、そのような人は多くはないと思います。私自身とてもその域には達していません。

もちろん一人一人に個性はあります。比較して優劣を付けることもできます。それを能力とか適性と呼んだりします。それが人と人との違いとして認識されるのは当然ですが序列には繋がらないはずです。しかし時としてそれが上下関係として捉えられます。

他にも世の中には様々な上下関係があります。

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2026年6月 8日 (月)

ながら思考 11 (おわりに)

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

この「ながら思考」の話も、始まりは「歩きスマホ」という現代ではどこにでもある光景への違和感でした。最初私は社会倫理や気配りといった観点からその否定的な側面にばかりに着目していました。

しかし、そこに「能動的思考」を働かせて、なぜ人は「ながら〇〇」をするのかを考えてみると、それは効率(タイパ)のためだけではなく、ただ歩くだけ、ただ食べるだけの時間に何か物足りなさを感じて、何らかの精神的充足を求めているからではないかということが見えて来ました。

「ながら思考」はその精神的充足の一つでもあり、無意識に処理する散歩のようなものから、意識を頻繁に切り替えながら雑用をするというようなものまで、いくつかの段階があることもわかりました。

「歩きスマホ」というネガティブな話題から始まりましたが、行き着いたのは「自分の頭をどう能動的に動かすか」という、ちょっと前向きな話でした。

まあ、これも一つの「よしなしごと」ですから、あまり難しく考えず、皆さんも気が向いたら歯磨きでもしながら、ふっと何かを考えてみてはいかがでしょうか。案外、面白い発見があるかもしれません。

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2026年6月 5日 (金)

ながら思考 10

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日「ながら思考」には2通りあると言いましたが、よく考えると3通りですね。昨日の2つの他にその中間の態様のものがあります。

散歩はこの範疇だと考えた方が良いでしょう。歩くことは意識下の行為ではありませんが、明確に具体的な一つ一つの行為(4月17日の「歩きスマホ 2」で書いたような)を意識しているとも言えません(いちいち意識しなくても歩くことはできます)。

コンピュータのバックグラウンド処理のような処理内容の切り替えも明確には意識されていていません。

ここで「二重過程理論」における「システム1思考」が思い浮かんだのですが、「ながら思考」との関係についてははっきりとした推測はできませんでした。ただ「システム1思考」と「システム2思考」を同時に行うとどうなるだろうかと考えてみました。

「システム1思考」と「システム2思考」を同時に行うなどという話は聞いたことはありません。二律背反すると考えられるものですから当然なのですが、人間の脳がこの2つを同時に行う能力を持っているかどうかはまた別の話ですし、それを行うことに意味があるなら考えてみても良い話です。

この点はまたいつかどこかで考える機会もあるでしょう。

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2026年6月 4日 (木)

ながら思考 9

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

あるよしなしごと読者の方が「ながら思考」を試して下さったそうです。その方は歯磨きの際に考えごとをしてみたそうなのですが、歯磨きの方がおろそかになってしまったと笑いながらおっしゃっていました。

さも有りなん。「ながら思考」には二通りあるように思われます。一つは複数の思考や行動を双方とも明確に意識しながら行うもの。コンピューターのバックグラウンド処理(タイムシェアリングシステム)のように意識の対象を頻繁に切り替えるというやり方です。歯磨きやボトル洗いをしながら考え事をするのは主にこのパターンで、なれないと一方がおろそかになってしまいます。

もう一つは一方の思考や行動を意識せず、他方の思考や行動のみを意識して行うというものです。こちらの場合当人は「ながら思考」をしているという意識はないと思います。一晩寝かせると新しい考えが湧いて来るのはこちらです。歯磨きやボトル洗いも熟練が進み(?)、意識せずにできるようになるとこちらの範疇に近くなる可能性はあります。

散歩しながら、シャワーを浴びながら、などはこちらの範疇のことが多いと思います。

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2026年6月 3日 (水)

ながら思考 8 (イヤなこと)

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「イヤなこと」は子供の脳の成長のために必要なことだそうですが、大人にとってもそれは必要なことかも知れません。

例えば、意思決定の改善即ち認知バイアスから解放される方法として最も簡単なのは実は(立ち止まって考えることでも一晩寝かせることでも、ましてや「ながら思考」でもなく)、他人の意見を聞くことです。

しかし、なかなかそれができず、他の方法をあれこれ考えることになってしまいます。そうなる最大の理由は「イヤなこと」は避けたいという消極的心理だと思います。

自分が正しいと判断していることについて、否定的な意見を聞かされることは「イヤなこと」です。そうなるかも知れないと考えるだけで、消極的な気持になります。たとえその意見に理があると思っても素直には聞けないのが人の性です。

しかし、消極的な気持ちを振り払って人の意見に耳を傾けることが出来れば、認知バイアスによる様々な問題から解放されることができるかも知れないのです。

世の中何かを得ようとした時に「イヤなこと」が立ちはだかるということは少なくありません。それと上手に付き合うことで何かを得られたとき、人は成長したと言えるのではないでしょうか。

大人にとっての素直さとはイヤなことを乗り越えるということでもあるのです。

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2026年6月 2日 (火)

ながら思考 7

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「ながら思考」が意思決定の改善になるとはあまり言われていないと思います(調べてはいません)が、似たようなことが脳機能の改善になるという話は聞いたことがあります。

例えば「運動をしながら計算(足し算や引き算)をすると認知症の予防になる」とか、「簡単な体操でも手順を多少複雑にして考えながらでないとできないようにすると脳の活性化になる」などです。

単純な四則演算や体操手順の判断が「思考」と言えるかはともかく、こういった「ながら」が脳に通常と違う働きをさせ、それに何らかの効果があることは推測できます。

この「ながら」も誰でも出来るのでやってみるとわかるのですが、決して快適だったり楽なことではなく、時には苛立ったりもします。

これはもちろんイヤなことを我慢するとご褒美が貰えるという類の古めかしい道徳論ではなく、何らかの合理的な根拠があるのだと思いますが、このくだりである本を思い出しました。

題名は忘れましたが脳科学者の中野信子さんが子供向けに書いた本に脳科学の観点から「イヤな思いをすることは成長に必要」という意味のことが書かれていてなるほどと思った記憶があります。

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2026年6月 1日 (月)

ながら思考 6

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

ここで「歩きスマホ」や「ながら〇〇」について取り上げたのは、それらをやめることによって可能になる「ながら思考」に興味があったからでした。

しかしあれこれ考えているうちに、「ながら思考」を積極的に活用し「意思決定の改善」の手段にするというアイディアが浮かんで来ました。

そして、この場合の「ながら思考」は、考えごとをする時に環境を変化させて思考に良い影響を与える、例えば散歩をしたり、音楽をかけたり、カフェに行ったり、といったことではありません。

むしろ逆で、思考の妨げになるようなことを敢えて行う、あるいは何ごとかに意識を集中させている時に敢えて考えごとをするといったことです。こういうことをすることでそれまでとは別の視点でものを考えざるを得ない状況を否応なく作り出せるのではないかと思う訳です。

こんな考えは(寡聞にして)聞いたことがありませんし、正しいかどうかも分かりません。しかしここでは結論を出すこと、ましてそれが正解かどうかは重要ではありません。

重要なのは自分で考えること(「能動的思考」)ですが、「よしなしごと」ですからそこにもこだわるつもりはありません。

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