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2025年8月29日 (金)

脱稿してからが・・ その1

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

先日題名を募集した、不動産売買の事故防止ノウハウに関する私の新刊は、先日脱稿して一段落しました(書名は「仮」)。

昨日追加で画像の加工指示を送ったところ、デザイナーが本文レイアウトのデザイン案を作成している段階とのことでした。

本の内容は私が過去30数年で扱った数々の不動産売買案件に潜むリスクとその対応を通して培った事故防止ノウハウで、これを体系化したものは多分類例がなく、かなり面白いものになったと自負しています。

そして、これを世に出すことが、不動産・金融・司法書士の各業界への貢献になると同時に司法書士の役割の再評価(地位の強化)の一助にしたいと、こちらはかなり本気で考えています。

ただ、具体的な原稿の内容自体はまだまだ修正の余地があるため、見直しを始めました。

すると、訂正や補足はもちろん、構造的な位置付けの変更もあり、予想以上に朱入れが多くなってしまっています。

住宅新報出版のSさん、初稿の戻しはいささか(?)直しが多いと思いますので、よろしくお願いしますm(_ _)m(締め切りを延ばして頂いた上に)。

つづく

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2025年8月28日 (木)

恐れるべきは・・・ その2

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

何のために考えるのか、何をしたいのか、を自分で考えることができないと、AIの回答を検証せず、それを鵜呑みにすることになります。

「人がAIに支配される」というディストピア的な予測がされることがあります。これはAIが人類を超える知性を獲得した結果として描かれることが多いと思いますが、そうではなく、この「鵜呑み」が進んだ結果、つまり人が自分で考える力を失った世界のことだと思います。

AIが如何に高い計算能力や推論能力や創造性を持つとしても、何のために計算や推論を行うのかという目的や意思を自ら持つのは今のところ難しいと思います。

支配するのはAIでなく、AIを使う人間、即ち自分達自身なのです。

人が自分の思考に支配される構図は「バイアス」即ち特定の状況で決まって起こる系統的なエラーで、そこにどんな道具が関わるかは重要ではありません。それがAIであってもおなじです。

ですからこの「支配」から逃れる方法はAIとは直接関係ありませんし、恐れるべきはAIやロボットではなく、人間、つまり自分自身なのです。

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2025年8月27日 (水)

恐れるべきは・・・ その1

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

AIに批判的な意見を聞くことは賢い使い方だと言いましたが、それはあくまでも多様な意見の存在を知る(自分の意見は正しいのだという「確証バイアス」から解放される)ためです。

AIが行う批判が的を射ているかどうかは別の問題であり、その検証には全く別のプロセスが必要です。

例えば、「腹落ち・・」の時のように論理性の有無で判断する方法や、信頼できる情報源に辿り着くまで出典や根拠を調べるという方法など、色々あると思います。

しかしいずれにしても重要なのは検証が必要だということです。

それはAIを「道具」として「使う」という意識を持っていること、言い換えれば何のためにAIを使うのか、という目的や意思を自分自身が持っていることです。

AIは私達よりも圧倒的に優れた能力を持っているのですから、代わりになんでもやってもらえばよいのです。ものすごく「頭が良い」のですから、代わりに考えてもらえばよいのです。

しかし、あくまでも「道具」であり、我々が主で、AIが従という関係であることを忘れてはならないのです。

そうでないと・・・

つづく

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2025年8月26日 (火)

「腹落ち」はしても・・・ その4

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

今回は2つの生成AIに同じ「お題」を与え、出て来た答えのうち、より説得力のある(と個人的に感じた)方をご紹介しました。

私が生成AIを使う目的の一つは、批判的な意見を聞くことにあります。「よしなしごと」であり、毎日しかも短時間で書くので、人の意見を聞いている暇は基本的になく、独断的な意見となるのは致し方ない、というか正しい(万人受けする)ことを書くのが目的ではないので批判があって当然なのですが、たまに題材によっては反対意見を聞いてみたいと思うことがあります。

そんな時に使うのが生成AIです。

今回ご紹介した肯定形の説明は、実は文脈は「思考の横滑りはシステム2の弊害だ」としたことへの「批判」として示されたものです。

AIは使い方によって役に立つかどうかが大きく違います。AIを批評者として使うのは一つの賢い使い方かも知れません。

何かを考えなければならないときにAIに丸投げするのでなく、自分で考えた上でそれに対する批評を聞いてみるのは、確証バイアスを外す(多様な意見を知る)という意味では良いと思います。

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2025年8月25日 (月)

「腹落ち」はしても・・・ その3

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「腹落ち」が「じゅうぶんにわかる」という意味だとすると「直感的に腹落ちした」は矛盾しています。

つまり私は「腹落ち」を「わかった気がする」という誤った意味に理解していた訳です。

しかしそれが「システム1」の働きであるという理解は間違ってはいないと思います。そして「じゅうぶんにわかる」の方は「システム2」の働きです。

ところで私はChatGPT5が示した専門用語的な回答ではわかった気になりませんでしたが、別の生成AI(Google Gemini)の回答ではそうなりました。

そちらも出典や根拠は示されていなかったのに、何故そうなったのか?

それは、そこに論理的な説明があり、それらが自分に思い当たるところがあったからだと思います。例えば・・

(横滑りは)〈より深く物事を考えられるようになった「進化」の副産物〉

〈論理的思考力や多角的な視点が、無意識に働いている〉

〈背後にある意味や関連性を探ろうとする思考の癖がついたため〉

〈認知能力が向上したサイン〉

・・

どれも肯定形であることも、「わかった」理由の一つだと思います。

つづく

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2025年8月22日 (金)

「腹落ち」はしても・・・   その2

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「腹落ち」「腹に落ちる」とは、「(りくつが)じゅうぶんにわかること」(三省堂国語辞典第八版)です。

客観的な根拠に基づいて「わかる」場合もあれば、それがないのに「わかった気持ちになる」場合もあります。

今回の「説明」に対する私の「腹落ち」は後者です。つまり、客観的な根拠が示されておらず、何故納得できたかを上手く説明できないけれど、直感的に「そうだ」と思った訳です。

これは「システム1」の働きです。

実は今回の「説明」は、「賛否論評せよ」という指示に対して生成AIが出して来たものです。

例えばChatGPT5は「認知資源の消耗」「意思決定疲労(decision fatigue)」という一見専門用語的なものを使って来ました。

この類のものを鵜呑みにしてしまうのも「システム1」です。

しかし今回ChatGPT5はそれ以外の説明もこの用語の出典も示さなかったため、私のシステム1は鵜呑みにして「わかった気持ち」になることはなく、「いや待て、これはどこから引っ張って来たんだ?」と考えました。

これが「システム2」の働きです。

つづく

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2025年8月21日 (木)

「腹落ち」はしても・・・

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日の、「システム2の弊害」について、腹落ちする説明が見つかりました。

まず「思考の横滑り」。

〈日常会話で思考が「横滑り」するのは、より深く物事を考えられるようになった「進化」の副産物〉

〈執筆を通じて培われた論理的思考力や多角的な視点が、日常の些細な会話の中でも無意識に働いている〉

〈単なる反射的な応答だけでなく、その背後にある意味や関連性を探ろうとする思考の癖がついたため、会話の主題から少し離れた部分に興味が湧き、思考が横にずれる〉

〈認知能力が向上したサインであり、弊害と断じるには早計〉

我が意を得たり!

次に「疲労感」

〈「弊害」ではなく「代償」である。執筆というクリエイティブで負荷の高い知的活動の後には、心身の疲労が伴うのは当然のこと。これは、特定の筋肉を酷使した後の筋肉痛と同じで、活動に費やしたエネルギーの「代償」と考えるのがより適切〉

〈休養を取ることで回復する一時的な状態であり、システム2そのものが持つネガティブな特性ではない〉

当たり前のことですね。

納得はしましたが、いずれについても客観的根拠はありません。

つづく

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2025年8月20日 (水)

システム2の弊害?

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

ようやく書籍の執筆が一段落して、人と話す時間が増えてきました。最後の数日は比較的集中して執筆していましたので、その後人と話すと、なんとなく違和感があります。

これは、先日の月次朝礼でもお話した(書籍でも、リスクの拡大要因のところで触れています)システム1思考とシステム2思考に関連しているのかもしれません。

つまり、日常会話の大半はシステム1思考によって処理されますが、執筆はシステム2で処理されます。

今回、締切が迫って過度にシステム2が発動され(?)たことで、その後に大きく影響がでているような感覚を味わっています。

一つは、人と会話をしている時に、違う方向に考えが「横すべり」する感覚です。

もう一つは疲労感です。普段は「アタマの疲れ」を感じますが、それを超えて執筆などのシステム2思考を続けると、「全身の疲れ」として後をひきます。

システム1の弊害に「バイアス」がありますが、システム2の過剰作動にもこういった弊害があるのかもしれません。

あくまでも私の受けた感覚の話ですが、とても興味深いことだと思っています。

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2025年8月19日 (火)

今日はお休み

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

今日は新刊書籍の「第一回入稿記念」のためお休みします(笑)。

ところでこのよしなしごとは殆ど就寝前(ネタがあるときは通勤車中)に書いて、夜中や早朝に修正するというのが執筆のパターンです。日中には書きません。時間を取りすぎてしまうことになるから。書きだめもしません。というかできません。

そうそう今度の新刊書籍は、「不動産売買の事故防止」をテーマにしたものですが、書籍の名前をみなさんから募集します。詳しくはイノベーション推進本部からご案内があると思います。

私は当初「不動産売買における事件・事故防止の教科書」という題名を仮につけておりましたが、もっと売れそうな名前にした方が良いという声も有りましたので、募集することになりました。私自身も少し違う名前を考えました(「ディフェンス」とか「防御」ということばを使ったものです)。

採用された方には何か良いことがあるかも。

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2025年8月18日 (月)

顧客開拓をするには

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

最近何人かの社員の方に「自分で顧客を開拓しても良いのか」と聞かれました。

(そんな質問が出ることは今昔の感がありますが)その時の答えは意図が正確に伝わったか自信がないので、もう一度整理してみます。

「顧客を開拓する」ことは、あらゆる事業者・企業にとって欠くべからざることで、フクダリーガルもそれを続けて来たことで今日があります。

そしてそれはそう簡単なことではありませんから、開拓活動を行う各人にとっては様々な学びがあり、それぞれの成長につながる貴重な経験でもあると思います。

ですから、個々人がそれを行うこと自体は、大いに賛成です。

しかし一方で、顧客を開拓することは、私達の仕事の入り口にしか過ぎません。その先には開拓した顧客に対してサービスを提供するという、私達の仕事の本体部分が待っているのです。

ですから、顧客の開拓をする方達には是非後工程のことまで考えながら行って欲しいと思います。

幸いみなさんには沢山の仲間がおり、組織があります。それを考えるのも、そもそも開拓すること自体も1人で行う必要はないのです。

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2025年8月15日 (金)

深く考える を 深く考える

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日は深く考えるとはどういうことか考えてみました。一晩で考えた割には良くできていたと思いますが、さすがにちょっと視野が狭すぎました(というよりテーマが大きすぎた?)。

こんな指摘がありました。

<提示されている定義は「未考のことを考える」「多くの答えを出す」「なぜを繰り返す」の3点に絞られているが、これは創造的思考やアイデア発想法に近く、「深く考える=批判的思考・論理的検証」や「検証のための情報収集」といったプロセスが抜け落ちている。
 たとえば、既存情報の比較・反証・データの裏付けなど、外部ソースとの照合が入らないと「深く」ではなく「広く」に偏る危険がある。>

確かにその通りです。日頃から「能動的思考」とか「批判的思考」などと言っているのにも関わらず、その点がすっぽりと抜け落ちていました。

また、問題が起こったら「まず事実を確認せよ」と言っているにも関わらず、その点も抜けていましたね。

ただ、「外部ソース」のうち「意見」は検討しましたが、自分で考えるためのヒントであって必須ではないと思い外しました。

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2025年8月14日 (木)

深く考える のつづき

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

深く考えるとは

1 考えたことのなかったことを考える
2 できるだけ多くの解答を考える
3 出た結論に対して更になぜと考え、それを繰り返す(トヨタ式?)

そしてそのためには

1 時間をかける
 数多くのアイディアを出したり、なぜを繰り返すためにこれはある程度必要
2 時間を置く
 一度考えるのをやめ、時間を置くと、自ずと異なる考えが浮かんで来る
 これにより考える労力と時間を少なくできる

出た答えは

1 新しく感じる
2 納得感がある

そして、多角的な考察から生まれた結論が「本質」と呼ばれるのだと思います。

またそれが、それまで他の多数の方によっても行われて来なかった場合、出た結論は「独創的」と呼ばれるのだと思います。

私は今、「不動産売買における事件事故防止」の書籍原稿について深く考える時間を持たせて頂いているお陰で(締め切り過ぎて済みません(汗))ある程度は本質的で独創的なものが書けると思います。

これは単なる自己満足かも知れませんが、深く考える習慣は、少なくとも(苦しみと共に)「考える喜び」をもたらしてくれると思います。

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2025年8月13日 (水)

深く考える

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

私は人よりは多少「疑問」が多いかも知れませんが、全てにいちいち引っかかっているわけではありませんし、引っかかったもの全てを深く考えるわけでもありません。

ただ、幸いものによっては深く考える機会を与えて頂いて来ました。例えば新・中間省略登記が生まれたのも、(旧)中間省略登記についての記事を書く機会を頂いたからです。

そしてそれを書籍化し、さらに改訂する機会を頂き、より深く考えることができたわけです。

例えば新・中間省略登記について、「転売」という実体上の概念と中間省略という手続上の概念を混同している方が極めて多いこと(転売が悪用されることで中間省略まで悪者に見られてしまう)と、転売型取引の持つ様々な機能に目を向ける方が極めて少ないことに気が付きました。そこから「クッションモデル®」が生まれ、「図解改訂版」の構成も大きく変わり、独創的なものになったと思います。

しかし、独創的なことにどこまで意義があるのかはわかりませんし、自己満足なのかも知れません。

重要なのは結果ではなくそこまでの過程なのです。深く考えるとは。

つづく

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2025年8月12日 (火)

疑問からはじまる

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

みなさんが「未来を創る」「新しい価値を創る」ことを実践している、つまり創造的な仕事をしている、という話ばかりしていて、そういうおまえはどうなんだと言われそうです。

わたしもこれまで人がやっていないことをやったり、提案したりして来たという意味では創造的な仕事をして来たと思っています。

代表例は新・中間省略登記ですが、他にも、認知症でも不動産売買ができるノウハウや、不動産売買の事件・事故の防止対策への、認知科学の成果の導入も前例のないことだと思います。

そしてそれができたのは、所謂「独創性」ではなく、疑問を持ったからだと思っています。

新・中間省略登記も、「第三者のためにする契約」というアイディア自体は私の発想ではありませんが、そのアイディアが出てきたのは、私の、「中間省略登記ができなくなるのはおかしくないか?」という疑問があったからでした。

「認知症だというだけで全く売買ができないというのはおかしくないか?」「どうみても怪しい取引に引っかかるのはおかしくないか」・・・が全ての始まりなのです。

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2025年8月 8日 (金)

司法書士の役割の再定義

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

これまで何回か「構造」という言葉を使ってきました(昨日も)。主に自分達がその構造の中に閉じ込められているという、否定的な意味合いを感じられたと思います。

もちろん構造が出来ていることによって得られる恩恵は大きいです。昨日の「構造」は司法書士が不動産売買の中で果たす役割のことで、それによって私達は役割を自覚してそれを忠実に果たし、社会に貢献できる(対価も得る)訳です。

しかし一方でその構造が固定化してしまうと弊害をもたらします。この構造の場合、司法書士がその構造の中に閉じこもろうとすると、その構造だけで対処できない新しい問題が出来(しゅったい)したときに対処できなくなります。

そこで「再構造化」が必要になります。

一般的に「構造化」とは概念の体系化を意味しているようですが、ここで「再構造化」という場合の「構造化」は「定義」、つまり司法書士の役割を「再定義」するということです。

要は、「事件事故防止」が司法書士の役割であることを明確にしようということです。

ただ、重要なのは再定義をし続ける「構造」にすることです。

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2025年8月 7日 (木)

事故防止の「構造」

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

私の新刊「不動産取引における事件事故防止の教科書」(仮)をみなさんにも読んで頂き、自らの仕事の本質や価値を再認識して欲しいと言いましたが、自分は事件事故防止には携わっていないから関係ないと思った方もいらっしゃるかも知れません。 
確かにこの本の中心テーマは

不動産売買シーンにおける
◆詐欺に代表される犯罪などの事件の実態
◆無権代理・意思無能力による事故の実態
◆それら事件・事故の分析
◆それらを如何にして防ぐか

であり

みなさん方のサービスの中、

◆情報・資料の収集
◆当事者・関係者間の調整
◆情報の変換と加工
◆それらの正確性の担保
◆加工後の情報の発信
◆成果物の回収
◆納品
◆種々の相談対応及びコンサルティング

等々については扱っていません。

それは、これらは司法書士の責任であることがほぼ明確な「構造」ができてしまっており、仮に事故があったとしても司法書士の側だけで解決せざるを得ないことになっているからです。

そのため、これらが事件・事故防止の基礎構造となっているという認識が自分達自身にも薄くなっているのではないでしょうか。

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2025年8月 6日 (水)

理念の達成は終わらない

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日の月次朝礼では、既にみなさんが(フクダリーガルの理念である)未来創造・価値創出を実現しているのだということを、担保抹消書類の受領に関する新しいしくみを作ったことを例に取ってお話ししました。

最近入社された方は、そのしくみが当たり前ですから、それを作ったことが如何に創造的であるかがわからないかも知れません。

もっとも、作った当人達も、不都合を改善しただけで特別創造的なことをしたとは思っていないかも知れませんが。

しかし創造とは世の中を大きく変えるような大発明や大発見のことだけを言うのではなく、日常の気付きから生まれた一つ一つの小さな改善や、その積み重ねのことなのです。

もう一つ、企業理念とは、未だ実現できていないことでもあります。

フクダリーガルは新しい価値をいくつも創り出し、未来を創って来ましたが、それでももっともっと生み出すべき価値、創り出すべき未来がありますから、理念が達成できた訳ではもちろんありません。

理念の実現のためにやるべきことはまだまだ沢山ありますから安心してください(笑)。

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2025年8月 5日 (火)

「教科書」で伝えたいこと

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

ようやく「(仮)不動産取引における事件・事故防止の教科書」が脱稿の運びになりました。A4のドキュメント(1000字/頁)で200枚近くになりました。

内容は「1 原理編」(不動産売買に関わるプロフェッショナルはリスクにどう立ち向かい、どう行動すべきか)、「2 理論編」(事件・事故とその原因の分析・体系化・定義)「3 実践編」(実務マニュアル)、「4  認知症発症者の重要財産取引」、付録「土地仕入れリスクの基本的知識」と盛り沢山です。

この本の想定読者層は、不動産会社、金融機関、そして司法書士です。

もちろん皆さんも対象者です。目的の一つは、実務に役立つマインドセットや、知識、技術の提供です。

そしてもう一つの目的は、皆さん自身に自分達の仕事の本質や意義を再認識して頂くということです。

先日、如何に自分達が未来創造・価値創出をなして来たかを、社員の皆さん自身が認識していない(当たり前のこととして行っている)と聞きました。

この本が私達の価値を外に発信することで、逆に内部での共有につながることを願っています。

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2025年8月 4日 (月)

理不尽だらけの世界

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

理不尽なことに対して「理不尽だ!」と怒るだけでは自分達の身を守ることはできません。

しかし、理不尽だらけの世の中は理不尽との戦いにもあふれており、戦わなかったことが原因なら理不尽だと怒ることもできません。

私達自身も毎日戦っています。たとえば、皆さんが日頃当たり前のように手続きをしている「登記」は「取引の安全」を図るための制度です。

つまり、取引は常に危険にさらされているということで、これこそ理不尽の最たるものです。登記は理不尽から身を守る手段なのです。

さらに私達の仕事は登記の手続きを越え、登記だけでは守れない事件・事故(例えば地面師)から身を守るための手立てを色々と講じています(おかげさまで事件事故防止の教科書は目処が立ちました)。

さらにもっと身近なこともあります。

たとえば皆さんは日頃の業務の中で「なんでそんなやり方をしているんだろう、もっと上手い(効率的な)やり方があるのではないか」と思うことがあると思います。それが「理不尽」です。

そしてそれを改善する工夫をします。これはまさしく理不尽との戦いです。

 

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2025年8月 1日 (金)

正しくても被害者になる理不尽

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

青信号で横断歩道を渡っていても信号無視してきた車にはねられる可能性はゼロではありません。だから、青信号でも常に注意している必要がある。 その注意を怠ってはねられたら、それは落ち度だ、と言ったら、そんな理不尽な!と言われそうですね。

でも、世の中、「正しくしていれば大丈夫」では済まされない場面がいくらでもあります。たとえ青信号を渡っていても、信号無視の車が突っ込んでくれば、自分が正しかろうがケガするのは自分。これは、理不尽ではあるけれど、現実なのです。

確かに「青信号だから自分に非はない」というのは正しいです。しかし、それは法律上の正しさに過ぎません。それで命や身体が守られるとは限らないのです。つまり、正しさと安全は別の話。このズレがまさに「理不尽」!

「注意を怠ったのも悪い」と言うと、「なんで被害者が責められなきゃならないんだ」と反発が出るでしょう。でもここで言いたいのは、「責任がある」という意味ではなく、自分を守るのは自分自身しかいないという厳しい現実の話なのです。

ではどうすれば?

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