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2025年6月23日 (月)

世の中、理不尽なことにあふれている

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

先日、ある地方議会議員の方との話で、「理不尽な要求をする有権者の支持を得なければ政治には関われない」という現実に、改めて議員という仕事の難しさを感じました。

理不尽といえば、政治に限らず、世の中には理不尽なことが本当に多い。

たとえばオレオレ詐欺や地面師事件など、詐欺は世間に横行していますが、そんな事件でさえ「騙される側も悪い」といった声が上がります。これもまた、理不尽の一つでしょう。

もちろん、騙す側が100%悪いのは言うまでもありません。被害者を責めるのは、筋違いです。

ただ、それだけで済まされない現実もある。私は司法書士として、詐欺に限らず多くの不動産取引事故を見てきましたが、どれも「正論」だけでは防げなかったものばかりです。

悔しい話ですが、被害に遭わないためには、「被害者にも何らかの問題があった」と認める視点も必要なのだと、感じざるを得ません。

もっとも、「悪い」「問題」と言ってしまうと話がこじれます。「要因」と言い換えれば、少しだけ理不尽さのトゲも和らぐかもしれません。

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2025年6月20日 (金)

確証バイアスとフィルターバブル その4

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

フィルターバブルは外部の仕組みによるものなので、まだ対処しやすい面があると書きました。しかし、ここに一つ厄介な前提があります。

それは「自分がフィルターバブルの中にいる」という問題意識そのものがなければ、そもそも気づきようがない、ということです。

そして、この「気づけなさ」を助長しているのが、確証バイアスです。人は、自分の信じたい情報、安心できる意見、自分の価値観を裏付けてくれる言葉ばかりに反応します。

たとえば「不動産は今が買い時である」と思いこんでいる人は、同じ論調の発信は肯定できますが「今は市場が過熱気味で危険」という警告には同調できません。無意識のうちに、自分にとって心地よい「正しさ」だけを集めてしまうのです。

結局、確証バイアスから逃れられなければ、フィルターバブルからも逃れられないのです。

つまり、「見たいものだけが見える」心理と、「見たいものだけを見せる」技術の合わせ技で、私たちはますます「別の視点」「反対の意見」「違和感を覚える情報」から遠ざかって行くのです。

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2025年6月19日 (木)

確証バイアスとフィルターバブル その3

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

この二つは、互いに作用しながら私たちの視野をじわじわと狭めていく困った存在です。
それに巻き込まれないために、まず必要なのは「そういう仕組みがある」と知っておくこと。

フィルターバブルは、検索エンジンやSNSのアルゴリズムといった外部の仕組みによるものなので、自分が偏った情報に囲まれていることに気づければ、まだ対処しやすい面があります。

厄介なのは確証バイアスです。これは自分自身の内面から自然に生まれる心理メカニズムなので、気づくこと自体が難しい。

では、どうすればよいか。
月曜日の当欄で紹介したように、ひとつの有効な方法は「反対のことを考える」習慣をもつことです。

たとえば、ある人について「この人は頼りないな」と感じたときに、あえて「この人が実は優秀だったとしたら?」と逆の評価を思い浮かべてみる。

すると、自分の判断が感情や直感に引きずられていた可能性に気づき、少し立ち止まって考え直す余地が生まれます。
この「ひと呼吸」が、確証バイアスの呪縛をゆるめてくれる可能性があるのです。

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2025年6月18日 (水)

確証バイアスとフィルターバブル その2

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

◆相互作用など

1. 相互強化
 フィルターバブルが提供する偏った情報が、確証バイアスによって「ほらやっぱり!」と補強されることがあります。
 逆に、確証バイアスが強い人ほど、フィルターバブル的な環境を好み、居心地の良さにどっぷりハマります。

2. 情報の選別
 どちらも「見たい情報しか見ない」構造を持ちます。  
 確証バイアスは内的なフィルター、フィルターバブルは外的なフィルターだという点は違いますが。

3. 分断の加速
 この両者が組み合わさることで、自分と異なる価値観や現実を理解する力が低下し、社会的分断が加速する危険があります。

◆まとめ(対比)

・原因
 確証バイアス:心理メカニズム
 フィルターバブル:技術的アルゴリズム
・フィルターの出所
 確証バイアス:自分の思考
 フィルターバブル:外部システム
・自覚しやすさ
 確証バイアス:低い(無意識)
 フィルターバブル:比較的高い(気づける)
・効果
 確証バイアス:自説の強化
 フィルターバブル:情報の偏在
・相互関係
 いずれも相互に補完し合う

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2025年6月17日 (火)

確証バイアスとフィルターバブル その1

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「確証バイアス」と似た言葉が流行っていますね。「フィルターバブル」です。

どちらも人が「自分にとって都合のいい情報ばかりを受け入れ、不都合な情報を無視・回避する」傾向に関係している点で共通しています。ただし、仕組みと発生源が違います。

◆確証バイアス

定義:自分の信念や仮説に合致する情報ばかりを集め、反する情報を無視・軽視する心理的傾向。

発生源:個人の心理メカニズム的要因(二重過程のうちの直感的過程)。

例:「Aは怪しい」と思い込んだ人が、Aのちょっとした言動もすべて「やっぱり怪しい」と解釈する。

◆フィルターバブル

定義:インターネット上で、検索エンジンやSNSのアルゴリズムによって、ユーザーの嗜好に合った情報ばかりが表示される現象。異なる意見や情報に触れにくくなる。

発生源:主に外部の技術的要因(AI・アルゴリズム)。本人の意思とは無関係に情報が「選別」される。

例:SNSで政治的な投稿を「いいね」した人に、同じ立場の意見ばかりが表示され、反対意見が目に入らなくなる。

つづく

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2025年6月16日 (月)

人を責める前に、自分の伝え方を省みる

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

誰かが思った通りに動いてくれないとき、「相手が悪い」と感じてしまうことは、誰にでもあると思います。

例えば、頼んだ仕事の結果がイマイチだったり、提案をうまく理解してもらえなかったりしたとき、「使えないな」とか「この人ちょっとズレてるな」と、つい相手のせいにしてしまう。

私も、ついついそう考えてしまうことがあります。

けれど後になって考えると、自分の伝え方や依頼の仕方にも落ち度があったと気づくことも多いのです。電話だけで済ませていたとか、説明を文書にしていなかったとか、前提を共有していなかったとか。

にもかかわらず、「あの人が悪い」と思い込んでしまうのは、「確証バイアス」という心のクセかもしれません。いったん相手を「こういう人」だと決めつけると、それを裏づける材料ばかりが目につく。

認知バイアスは「ある特定の状況で決まって起こる系統的なエラー」で、誰でも陥りやすいものです。ですから、「特定の状況下」で「意図的に反対のことを考える」ことでバイアスを排除する努力が必要になります。

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2025年6月13日 (金)

非対面だと、なぜ過激? その2

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

(非対面だと表現がキツくなる理由)

2 クッションがない
 文章は声のトーンや表情といったクッション(緩衝材)を持ちません。本来なら、顔つきや話し方で伝わるニュアンスも、文章にするとすべてストレートに届きます。結果、意図せず強い印象になってしまう。

3 感想にすぎないという思い
 「これはただの感想」と思うことで、言葉の重みを見誤ってしまい勝ちです。また批判的なことを言うとき、人は自分の中で「これは改善のために必要なことだ」と正当化しがちです。その結果、受け取る側の気持ちを想像する配慮が、どうしても後回しになってしまう。

そして(理由はともかく)キツい言葉のあるかも知れない感想文を開くのが次第に怖くなってしまいました。

とはいえ、約束した以上、必ず読もうとは思っています。また、どんなにキツく感じる言葉の中にもきっと何かしらの学びや気づきがあることも分かってはいます。

ただ、今回は「非対面での伝え方」について、自分自身の受け止め方も含めて、少し考える機会になったこともお伝えしたかったのです。

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2025年6月12日 (木)

◆ 非対面だと、なぜ過激? その1 ◆

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

少し前のことですが、朝礼の感想を皆さんから頂いていた時期がありました。ささやかながら報酬も付けていましたが、最後の朝礼分については、まだ読めておらず、報酬も未払いのままです。

「必ず読みます」とお伝えしていた手前、読まずにいることを心苦しく思っています。もっとも、期日は設けていませんでしたので、その点はお許しいただければ幸いです。

今朝はその「言い訳」です。

感想には、もちろん賛否両論ありますし、批判的な内容もありました。それ自体はむしろ歓迎すべきことなのですが、いくつかの文面には驚くほど表現が過激なものもありました。

誰が書いたかは分かりますし、普段は普通に言葉を交わしている方たちです。それでも、文章だけになると、なぜこんなにトゲのある表現になるのだろう?と、正直、不思議でした。

そこにはどうやら3つほど理由があるようです。

1 相手の反応が見えない
  相手が傷ついているか、怒っているか、困っているかが分からないので無意識のうちに「自制」が効かなくなってしまいます

つづく

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2025年6月11日 (水)

善意って何?

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

先日知人に私の誕生祝い(飲み会)をやろうと言われましたが、お断りしました。私は誕生日を他人に知られること、祝われること自体に抵抗があるからです。

それは私の個人的な価値観であり、多くの人にとっては理解しがたいかもしれません。しかし、「誕生日は皆で祝うもの」という「前提」を共有していない人間がいる、ということは知っていてほしいと思います。

かつて、一部の社員の方達が誕生日に花束を贈って下さったことがありました。私は社内に誕生日を公表してはいませんので不思議に思いましたが、業務で私の印鑑証明書を扱うので分かるとのことでした。

気持ちはありがたいと思いましたし、素直に(?)感謝の意を伝えましたが、その後、自分の性格や価値観はきちんと伝えなければいけなかったと反省しました。

私が何より望むのは、互いの違いを尊重し、意図せずとも踏み越えないように気を配れる組織であることです。

善意とは「相手のことを思いやること」であり、「自分がいいと思うことをすること」ではありません。

自分の中にある「当たり前」を疑ってみよう。

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2025年6月10日 (火)

名前を呼ぶこと その2

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

引っかかっていたのはもちろん名前を忘れて当人を失望させたのではということですが、当時同席していた方がこう教え諭して下さいました。

「あのとき、名前を覚えてもらっていなかったことは、全く気にしていなかったと思いますよ。
 むしろ、一生懸命思い出そうとしてくださっていたことを、とても嬉しく感じていたと思います。」

──その言葉に、救われた気がしました。

名前を呼ぶという行為は、記憶力の勝負ではありません。
完璧である必要もありません。

大切なのは、「あなたを覚えたいと思っている」という気持ちがあるかどうかです。

名前がすぐに出てこないこともあるでしょう(年配者は特に)。
間違えることだってあります。
でも、その背景に関心や敬意があれば、それは必ず伝わるのだと思います。

だからこれからも、できる限り名前を呼びたいと思います。
そして、呼べなかったときも、ちゃんと思い出そうとする姿勢を忘れないようにしたいと思います。

その一声が、静かに、でも確かに、人と人との関係を育てていく──
最近、そんなふうに感じています。

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2025年6月 9日 (月)

名前を呼ぶこと その1

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

挨拶に名前が添えられるだけで、ふっと心がほぐれます。

「おはようございます」よりも「鈴木さん、おはようございます」──たったそれだけの違いなのに、なぜか少し嬉しくなります。

名前を呼ばれるというのは、自分が「誰か」としてそこに存在していることを認められる感覚です。
ちゃんと見られている、ちゃんと記憶の中にいる。
それだけで、不思議と気持ちが前を向きます。

最近、それについて学んだ出来事がありました。

写真撮影のための模擬講義で、私は講師役を務めました。
受講生役の新入社員の中に、積極的に手を挙げてくれた印象的な方がいました。

ところが、私はその場でその方の名前を呼ぶことができませんでした。

実を言えば、名前は頭に浮かんでいました。しかも合っていました。
でも自信がなく、間違えたら申し訳ないという思いから、つい「忘れたふり」をしてしまったのです。

その方の出身地や、どういう縁で入社してくれたのかまでは覚えていて話せたのに、
肝心の名前だけ、声に出せませんでした。

そのことがずっと、引っかかっていました。

つづく

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2025年6月 6日 (金)

挨拶とは、キャッチボールのようなもの その2

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

こちらが「おはようございます!」と元気よく声をかけたのに、相手が目を伏せてボソッと「ッス」と返された時、もやもやしたものを感じるのは、相手が無礼だとかでなく、自分が「こう返してほしい」と思っていた反応と落差があったからだと思います。

「受け取り方」や「返し方」も含めて挨拶ですが、全力でボールを投げたら全力で投げ返して欲しい、つまり対称性を求め勝ちです。ですから相手が「片手でぽとり」だと失望します。

一方、こちらが軽く投げたときに、やはり軽く返してくれると、なんとなく気持ちが通じたように感じます。

挨拶で投げ合うのは言葉でなく気持ちです。相手に合わせようとする気持ち、互いに存在を認め合おうとする気持ちのキャッチボール。

人は、自分の存在が認められていると思えるだけで、安心します。
だから、挨拶の本質は、言葉や形式ではなく、存在を認めるという気持ちの表現にあるのかもしれません。

きちんとしていなくても、たとえ一瞬でも、その気持ちがこもっていれば、それは立派な挨拶だと思います。

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2025年6月 5日 (木)

挨拶とは、キャッチボールのようなもの その1

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

挨拶というと、「おはようございます」「こんにちは」といった言葉を思い浮かべます。
でも、実際にはそれだけが挨拶ではありません。

会釈、軽くうなずく、目を合わせてニッと笑う、目礼する──そんな言葉を伴わない「動作だけの挨拶」もあります。
言葉がなくても、「あなたがそこにいることを認識しています」という意思が伝われば、それは立派な挨拶になります。

むしろ、言葉だけで済ませる形式的な挨拶より、目線や間(ま)のある会釈の方が、丁寧に感じられることすらあります。
その一瞬に、意識と温度がちゃんと込められていれば、挨拶は成立する。
言葉かどうかは、本質的な問題ではないのかもしれません。

挨拶って、つくづくキャッチボールに似ていると思います。
相手が投げた力加減や距離感に応じて、こちらもそれに見合った形で返す。
言葉か動作かよりも、その呼吸が合っているかどうかの方が、よほど大切に思えます。

ただし、挨拶がうまく通じたと感じられる場合と、どこかモヤモヤしたものが残る場合があるのも事実です。

つづく

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2025年6月 4日 (水)

知らない人への挨拶

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「挨拶はしないよりマシ」というのは、知人間だけの話ではありません。むしろまったく知らない人に対してこそ、挨拶の持つ力は大きいのではないでしょうか。

たとえば来客。
初めて訪れたオフィスで、すれ違う誰一人こちらを見ず、挨拶もしなかったらどう感じるでしょう?たとえ訪問の目的が営業や配送などであっても、その「無関心さ」は確実に伝わります。

逆に言えば、たとえその人がどんな立場で来たとしても、「こんにちは」の一言があれば救われます。

これは「おもてなし」のような高尚な話ではありません。
配送サービスの方が、1日に何十件も回って疲れている中、無表情で荷物の受渡しをされるよりも、ちょっとした挨拶があるだけで、安らぐのでは?

挨拶は、関係性がまだ存在していない人に対しても「関係を開く扉」として機能するのだと思います。

依頼者、営業マン、配達員、清掃員、求人応募者、はたまたエレベーター内の見知らぬ人。
誰であっても、その瞬間「敵ではない」「あなたを無視していない」という意思表示としての挨拶は、言葉以上の意味を持ちます。

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2025年6月 3日 (火)

挨拶、しないよりはマシ

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

雑な挨拶が時に不快に映ることはあります。
たとえば、目も合わせず「ッス」とだけ言われたら、形式だけで気持ちが伴っていないように感じるかもしれません。

それでも、全く挨拶をしないよりは、まだマシな場合があります。
なぜなら、それは少なくとも「あなたの存在を認識している」というサインになるからです。
そのわずかなサインでも、相手にとっての安心や承認につながる可能性があります。
そうした反応は、たとえ無意識のうちでも人の心に小さな影響を与えます。

逆に、知人や同僚に挨拶を一切しない場合、相手は「無視された」と感じるかもしれません。
それは、相手に疎外感や不安感を与え、時には自己否定につながるかも。
そうした否定的な感情は、関係性だけでなく、その人自身のモチベーションにも影を落とします。

人は案外「自分がそこにいていいのか」「他者から認められているのか」という感覚に敏感です。
だからこそ、どんなにささやかでも、挨拶には意味がある。
たとえ完璧でなくても、存在を認め合う行為として、きっと何かを届けられるのです。

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2025年6月 2日 (月)

クッション言葉も使いよう

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

クッション言葉が挨拶と同じだと言えるのは、どちらも相手に対して、あるいは相互の人間関係について、積極的(肯定的)な効果をもたらすものだからです。

しかし、使い方や場面によっては必ずしも積極的・肯定的な効果をもたらさないどころか、かえって消極的・否定的な効果を発生させてしまう場合があります。「遅い時間(休日)に済みません」が使い方に気をつけなければならないものの一つであることは前回書きました。

また、弊社で挨拶言葉ではないとしている「お疲れ様(です)」もそうです。これは本来人を労うための言葉ですから、人を労う場面で使えば積極的・肯定的な効果が発揮できますが、そうでない場面で使うと消極的・否定的な効果を生じさせることがあります。

一般的な挨拶である「おはよう(ございます)」「こんにちは」「こんばんは」でも同じです。

これらは使うべき場面や時間帯に使わなかったり、相応しい立ち居振る舞いとともに使わなかったり(そっぽを向きながらなど)しますと、やはり消極的・否定的効果を生じさせる危険性があります。

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