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2025年6月12日 (木)

◆ 非対面だと、なぜ過激? その1 ◆

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

少し前のことですが、朝礼の感想を皆さんから頂いていた時期がありました。ささやかながら報酬も付けていましたが、最後の朝礼分については、まだ読めておらず、報酬も未払いのままです。

「必ず読みます」とお伝えしていた手前、読まずにいることを心苦しく思っています。もっとも、期日は設けていませんでしたので、その点はお許しいただければ幸いです。

今朝はその「言い訳」です。

感想には、もちろん賛否両論ありますし、批判的な内容もありました。それ自体はむしろ歓迎すべきことなのですが、いくつかの文面には驚くほど表現が過激なものもありました。

誰が書いたかは分かりますし、普段は普通に言葉を交わしている方たちです。それでも、文章だけになると、なぜこんなにトゲのある表現になるのだろう?と、正直、不思議でした。

そこにはどうやら3つほど理由があるようです。

1 相手の反応が見えない
  相手が傷ついているか、怒っているか、困っているかが分からないので無意識のうちに「自制」が効かなくなってしまいます

つづく

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2025年6月11日 (水)

善意って何?

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

先日知人に私の誕生祝い(飲み会)をやろうと言われましたが、お断りしました。私は誕生日を他人に知られること、祝われること自体に抵抗があるからです。

それは私の個人的な価値観であり、多くの人にとっては理解しがたいかもしれません。しかし、「誕生日は皆で祝うもの」という「前提」を共有していない人間がいる、ということは知っていてほしいと思います。

かつて、一部の社員の方達が誕生日に花束を贈って下さったことがありました。私は社内に誕生日を公表してはいませんので不思議に思いましたが、業務で私の印鑑証明書を扱うので分かるとのことでした。

気持ちはありがたいと思いましたし、素直に(?)感謝の意を伝えましたが、その後、自分の性格や価値観はきちんと伝えなければいけなかったと反省しました。

私が何より望むのは、互いの違いを尊重し、意図せずとも踏み越えないように気を配れる組織であることです。

善意とは「相手のことを思いやること」であり、「自分がいいと思うことをすること」ではありません。

自分の中にある「当たり前」を疑ってみよう。

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2025年6月10日 (火)

名前を呼ぶこと その2

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

引っかかっていたのはもちろん名前を忘れて当人を失望させたのではということですが、当時同席していた方がこう教え諭して下さいました。

「あのとき、名前を覚えてもらっていなかったことは、全く気にしていなかったと思いますよ。
 むしろ、一生懸命思い出そうとしてくださっていたことを、とても嬉しく感じていたと思います。」

──その言葉に、救われた気がしました。

名前を呼ぶという行為は、記憶力の勝負ではありません。
完璧である必要もありません。

大切なのは、「あなたを覚えたいと思っている」という気持ちがあるかどうかです。

名前がすぐに出てこないこともあるでしょう(年配者は特に)。
間違えることだってあります。
でも、その背景に関心や敬意があれば、それは必ず伝わるのだと思います。

だからこれからも、できる限り名前を呼びたいと思います。
そして、呼べなかったときも、ちゃんと思い出そうとする姿勢を忘れないようにしたいと思います。

その一声が、静かに、でも確かに、人と人との関係を育てていく──
最近、そんなふうに感じています。

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2025年6月 9日 (月)

名前を呼ぶこと その1

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

挨拶に名前が添えられるだけで、ふっと心がほぐれます。

「おはようございます」よりも「鈴木さん、おはようございます」──たったそれだけの違いなのに、なぜか少し嬉しくなります。

名前を呼ばれるというのは、自分が「誰か」としてそこに存在していることを認められる感覚です。
ちゃんと見られている、ちゃんと記憶の中にいる。
それだけで、不思議と気持ちが前を向きます。

最近、それについて学んだ出来事がありました。

写真撮影のための模擬講義で、私は講師役を務めました。
受講生役の新入社員の中に、積極的に手を挙げてくれた印象的な方がいました。

ところが、私はその場でその方の名前を呼ぶことができませんでした。

実を言えば、名前は頭に浮かんでいました。しかも合っていました。
でも自信がなく、間違えたら申し訳ないという思いから、つい「忘れたふり」をしてしまったのです。

その方の出身地や、どういう縁で入社してくれたのかまでは覚えていて話せたのに、
肝心の名前だけ、声に出せませんでした。

そのことがずっと、引っかかっていました。

つづく

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2025年6月 6日 (金)

挨拶とは、キャッチボールのようなもの その2

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

こちらが「おはようございます!」と元気よく声をかけたのに、相手が目を伏せてボソッと「ッス」と返された時、もやもやしたものを感じるのは、相手が無礼だとかでなく、自分が「こう返してほしい」と思っていた反応と落差があったからだと思います。

「受け取り方」や「返し方」も含めて挨拶ですが、全力でボールを投げたら全力で投げ返して欲しい、つまり対称性を求め勝ちです。ですから相手が「片手でぽとり」だと失望します。

一方、こちらが軽く投げたときに、やはり軽く返してくれると、なんとなく気持ちが通じたように感じます。

挨拶で投げ合うのは言葉でなく気持ちです。相手に合わせようとする気持ち、互いに存在を認め合おうとする気持ちのキャッチボール。

人は、自分の存在が認められていると思えるだけで、安心します。
だから、挨拶の本質は、言葉や形式ではなく、存在を認めるという気持ちの表現にあるのかもしれません。

きちんとしていなくても、たとえ一瞬でも、その気持ちがこもっていれば、それは立派な挨拶だと思います。

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2025年6月 5日 (木)

挨拶とは、キャッチボールのようなもの その1

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

挨拶というと、「おはようございます」「こんにちは」といった言葉を思い浮かべます。
でも、実際にはそれだけが挨拶ではありません。

会釈、軽くうなずく、目を合わせてニッと笑う、目礼する──そんな言葉を伴わない「動作だけの挨拶」もあります。
言葉がなくても、「あなたがそこにいることを認識しています」という意思が伝われば、それは立派な挨拶になります。

むしろ、言葉だけで済ませる形式的な挨拶より、目線や間(ま)のある会釈の方が、丁寧に感じられることすらあります。
その一瞬に、意識と温度がちゃんと込められていれば、挨拶は成立する。
言葉かどうかは、本質的な問題ではないのかもしれません。

挨拶って、つくづくキャッチボールに似ていると思います。
相手が投げた力加減や距離感に応じて、こちらもそれに見合った形で返す。
言葉か動作かよりも、その呼吸が合っているかどうかの方が、よほど大切に思えます。

ただし、挨拶がうまく通じたと感じられる場合と、どこかモヤモヤしたものが残る場合があるのも事実です。

つづく

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2025年6月 4日 (水)

知らない人への挨拶

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「挨拶はしないよりマシ」というのは、知人間だけの話ではありません。むしろまったく知らない人に対してこそ、挨拶の持つ力は大きいのではないでしょうか。

たとえば来客。
初めて訪れたオフィスで、すれ違う誰一人こちらを見ず、挨拶もしなかったらどう感じるでしょう?たとえ訪問の目的が営業や配送などであっても、その「無関心さ」は確実に伝わります。

逆に言えば、たとえその人がどんな立場で来たとしても、「こんにちは」の一言があれば救われます。

これは「おもてなし」のような高尚な話ではありません。
配送サービスの方が、1日に何十件も回って疲れている中、無表情で荷物の受渡しをされるよりも、ちょっとした挨拶があるだけで、安らぐのでは?

挨拶は、関係性がまだ存在していない人に対しても「関係を開く扉」として機能するのだと思います。

依頼者、営業マン、配達員、清掃員、求人応募者、はたまたエレベーター内の見知らぬ人。
誰であっても、その瞬間「敵ではない」「あなたを無視していない」という意思表示としての挨拶は、言葉以上の意味を持ちます。

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2025年6月 3日 (火)

挨拶、しないよりはマシ

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

雑な挨拶が時に不快に映ることはあります。
たとえば、目も合わせず「ッス」とだけ言われたら、形式だけで気持ちが伴っていないように感じるかもしれません。

それでも、全く挨拶をしないよりは、まだマシな場合があります。
なぜなら、それは少なくとも「あなたの存在を認識している」というサインになるからです。
そのわずかなサインでも、相手にとっての安心や承認につながる可能性があります。
そうした反応は、たとえ無意識のうちでも人の心に小さな影響を与えます。

逆に、知人や同僚に挨拶を一切しない場合、相手は「無視された」と感じるかもしれません。
それは、相手に疎外感や不安感を与え、時には自己否定につながるかも。
そうした否定的な感情は、関係性だけでなく、その人自身のモチベーションにも影を落とします。

人は案外「自分がそこにいていいのか」「他者から認められているのか」という感覚に敏感です。
だからこそ、どんなにささやかでも、挨拶には意味がある。
たとえ完璧でなくても、存在を認め合う行為として、きっと何かを届けられるのです。

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2025年6月 2日 (月)

クッション言葉も使いよう

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

クッション言葉が挨拶と同じだと言えるのは、どちらも相手に対して、あるいは相互の人間関係について、積極的(肯定的)な効果をもたらすものだからです。

しかし、使い方や場面によっては必ずしも積極的・肯定的な効果をもたらさないどころか、かえって消極的・否定的な効果を発生させてしまう場合があります。「遅い時間(休日)に済みません」が使い方に気をつけなければならないものの一つであることは前回書きました。

また、弊社で挨拶言葉ではないとしている「お疲れ様(です)」もそうです。これは本来人を労うための言葉ですから、人を労う場面で使えば積極的・肯定的な効果が発揮できますが、そうでない場面で使うと消極的・否定的な効果を生じさせることがあります。

一般的な挨拶である「おはよう(ございます)」「こんにちは」「こんばんは」でも同じです。

これらは使うべき場面や時間帯に使わなかったり、相応しい立ち居振る舞いとともに使わなかったり(そっぽを向きながらなど)しますと、やはり消極的・否定的効果を生じさせる危険性があります。

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