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2024年4月30日 (火)

マインドセットがものごとを変えて行くということ

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

ただでさえ忙しい上に、システム障害リスクに備えた準備に徒労感を感じているみなさんとしてみれば、「司法書士は国のアウトソーサーである」とか「対等なパートナーである」と言ってみても、意味があるのか(それで障害が改善されるわけでもない)、あるいは理想と現実がかけ離れていると考えるかも知れません。

確かにすぐに何かが変わるわけではありませんが、現実とかけ離れた理想論を述べている訳でもありません。「アウトソーサー」や「パートナー」は理想ではなくマインドセットの問題です。

理想と違いマインドセットは必ず実現できるものです。そのように考える習慣を持てば良いだけです。それに行動が伴わなければものごとは変わりませんが、それがなければものごとを変えることは絶対にできません。

現にアウトソーサー、パートナーとしてシステム障害を何とかするんだというマインドセットの下に、様々な行動がとられ始めています。先週は森まさこ元法務大臣が現法務大臣にこの問題について鋭く質問をして下さいました(※)。


※インターネット審議中継2024年4月25日参議院法務委員会:https://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/detail.php?sid=7905
(34分頃から森議員の当該質問)

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2024年4月26日 (金)

司法書士は国と対等なパートナーであること

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

司法書士が国のアウトソーサーであることを私達の使命との関わりから考えてみます。

これまで弊社では「能動的思考」というマインドセットを重視して来ました。これは、例えば国から何かを指示された時(登記申請に誤りがあるから訂正せよ、等)に、まずそれが妥当なのかを自分の頭で考えるという思考習慣です。

このマインドセットは大切なものですが、それだけでは不十分です。考えた結果を相互にぶつけ合い議論することが出来なければ、イノベーションを引き起こすことはできないからです。

イノベーションは特にこれからの司法書士の使命の一つです。そもそも私達の使命は現行の制度を守ることではなく、制度を時代や環境の変化に対応した、より的確なものに変えていくことにありますが、これからはますますそれが求められます。

アウトソーサーであるということは、国と司法書士との間には上下関係はなく、役割を分担する対等な関係であるということです。そう捉えることでイノベーションを引き起こす自由な議論や意見交換が出来るのです。

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2024年4月25日 (木)

司法書士が国のアウトソーサーでもあること

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

申請人でなく国のアウトソーサーであるという話はあまり聞いたことがないと思いますので少し説明します。

まず、アウトソーサーとはアウトソーシングを受ける者のことです。アウトソーシングとは①業務の一部を②外部の専門事業者(アウトソーサー)に③委託すること(三省堂国語辞典第七版の定義より)です。

この3つの要素についてそれぞれ見てみましょう。

① 業務の一部
例えば私達は登記に必要な条件や資料を国の審査に先立って審査することで、国(法務省・法務局)の業務負担を軽減しています。
② 外部の専門事業者
司法書士は正しく外部の専門事業者です。
③ 委託する
司法書士が国から独占的な資格を与えられているということは、広い意味で国の委託を受けていると言って良いと思います。

以上から司法書士は国のアウトソーサーであるといえます。

登記申請を申請人本人が行うことは申請人自身にとっても、申請を受ける国にとっても大きな負担ですから、それを軽減するアウトソーサーとして司法書士は不可欠の存在なのです。

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2024年4月24日 (水)

システム障害で司法書士の真の役割が見えてきた (つづき)

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

私達の仕事が色々な側面を持っていることはみなさんが最も良くご存知だと思います。その一つに登記申請手続の代理人としての一面があります。

これは単に申請人に代わって手続きを行うという意味だけでなく、登記手続きの一部を国に代わって受け持つアウトソーサーとしての意味があります。

つまり、司法書士は国(行政)と共に行政手続の生産性を上げる役割を担うということです。

そして、オンライン申請というしくみも、もちろん行政手続きの生産性を上げるためのものですから、問題があれば私達も国とともにその問題を解決する使命を担います。自分の申請が行えればそれで良いということでないのは言わずもがなです。

また、申請人との関係でも障害が申請人に及ばないよう司法書士が防波堤になれば良い、ということではありません。

障害発生時の対症療法として一時的にそれが必要な場合はあるにせよ、真の役割はそこにではなく、障害の原因を究明して再発を防ぎ、システムひいては制度の信頼を高めるところにあると思います。

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2024年4月23日 (火)

システム障害で司法書士の真の役割が見えてきた

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

今回のシステム障害をきっかけに様々な課題が明らかになりましたが、最も本質的なものは社会における司法書士の位置づけです。

それを感じさせられたのは、今回の障害に対して「自分のところは書面申請に切替えたから問題はなかった」という司法書士が少なくなかったと聞いたからです。

そういう方はシステム障害でネット送金ができなくなり、現金を引き出して支払った時に、現金で支払えたから問題はないと言うのでしょうか。

そうは言わないと思います。
では、この違いはどこから来るのでしょうか? 

銀行の送金システムであれば、利用者はそれに対して代価を支払っていますから、それに見合ったサービスを求めるのは当然ですが、私達司法書士は代価を払っているわけではないので、先の司法書士のように憤慨することがないのかも知れません。

しかしそうだとするならそれは大きな思い違いです。私達司法書士は、代価を支払って利用する立場ではありませんが、無償で利用させてもらっている立場でもないのです。

それどころか・・・

(つづく)

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2024年4月22日 (月)

感情が後押しするレッテル貼り

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

レッテル貼り(主観的・一方的な評価)も、効率よく対人関係やマネジメントを前に進めるという要請からは致し方ないところがあります。

ですから、時間的な余裕がある場合にはレッテルを貼らず、冷静かつ客観的に人を評価することが可能なはずです。しかしそうはならずにレッテルを貼ってしまうことも実際には多いのです。そこには感情が影響しています。

最初に相手に対してネガティブな感情(怒りや憎しみ、嫉妬など)を抱いてしまうことがネガティブなレッテル貼りの原因になります。

感情が認知にバイアスを与えることは心理学の研究でも明らかなのですが、相手に対して抱いた何らかのネガティブな感情を正当化するためにネガティブなレッテルを貼るのではないでしょうか。

これは極めて不合理なことではありますが、ネガティブなものからポジティブなものまで様々な感情の渦巻く中で、感情抜きでは成立し得ない私達の生活においては、自分の感情をコントロールするよりも、レッテル貼りによって自分を正当化する方が楽であることは否定できないのです。

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2024年4月19日 (金)

レッテル貼りには効用もあるので恐ろしい

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

いつもこのコラムを読んで頂いているみなさま、ありがとうございます。賛否両論あると思いますし、思い当たることもあれば、自分ごとには思えない場合もあるのではないかと思います。

特に「レッテル貼り」の問題に関しては、大半の方は自分には関係ない、人にレッテルを貼るようなことはしていないと思われたのではないでしょうか。

しかし大半の方は多かれ少なかれレッテル貼りをしていると思います。それを悪いことだと言いたい訳ではなく、逆にそれはある意味仕方のないことだと思います。

なぜなら、レッテルを貼る(評価にバイアスがかかる)ことは、一面では合理性があるからです。つまり、それによって情報の処理を効率的に行えるということです。忙しい現代人が少ない情報で迅速に判断を下してものごとを前に進めるためにはレッテル貼りは非常に便利です。

みなさんには便利さの影に隠れた問題を知って頂きたいのですが、自分がそんな問題を抱えているとは夢にも思っていない多くの方が、自分にその傾向があることに気づくことが先決です。

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2024年4月18日 (木)

貼られたレッテルを剥がすために、貼ったレッテルを剥がす

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

難しいのは、一度貼られたレッテルを剥がすことです。なぜなら、人にレッテルを貼っていること、つまりその評価が主観的・一方的だということを貼っている側は気がついていないからです。

ですから、自分に対するレッテルを剥がしてもらうためにはまず相手にそれに気づいてもらわなければなりません。そのための方法は、レッテルを貼られないようにする方法(挨拶や仕事と関係のない話をしてみる)と同じです。ですから、それは本来さほど難しいことではないはずです。

ところが実際は難しいのです。なぜなら、自分も相手にレッテルを貼ってしまっている(しかもそのことに気づいていない)からです。

ネガティブなレッテルを貼っている相手に対しては、そもそも進んでコミュニケーションを取ろうという気持にならないことが多いのです。

相手に自分に対するレッテルを剥がしてもらうためには、まず自分が相手に対するレッテルを剥がすことが必要で、そのためには自分が相手にレッテルを貼っていることに気づくことが必要なのです。

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2024年4月17日 (水)

レッテルは貼らないだけでなく貼られないようにすることも大切

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

人が認知バイアスに囚われてしまう生き物であることはここで何度も書きましたが、その現れの一つに、人に「レッテルを貼る」「色眼鏡で見る」(人の言動の一部を根拠に全面的な評価付けをしてしまう)というものがあります。

一度レッテルや色眼鏡が出来てしまうと対象者の別の側面に目がいかなくなり対人関係やマネジメントの上で様々な支障が出ます。

ただ、レッテルや色眼鏡は誰でも犯しやすい過ちで、大事なのはそれを避けることよりも一度貼ったレッテルをはがしたり色眼鏡を外す努力です。

一方で、人からレッテルを貼られないようにする、あるいは良いレッテルを貼られるように努めることも大切です。

そのためには
①できるだけ外面をよく見せる
②できるだけ自分の別の側面を知ってもらう
ことです。

難しいように思えるかも知れませんが、実はとても簡単なことです。こんな行動を実践することです。
①挨拶をしてみる
②仕事と関係ない話をしてみる
既に実践している方もいると思いますが、まだの方は是非やってみて下さい。

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2024年4月16日 (火)

何が大義なのかを考えてみる

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

自分たちの仕事に理想や使命感、誇りを持つこととは別に、つつがなく仕事を終わらせることもまた誇るべきことです。

例えば給与の支給日に送金システムが容量過多による障害によって送金ができなくなったとき、支払いが遅延しても給与支給者が責められることはないでしょう。しかし心ある給与支給者であれば、別の手段での支給を試みます。例えば現金を銀行口座から引き出して支給するなどです。

しかし、この方法は、社員数の少ない企業であればまだしも、社員数の膨大な企業では現実的に不可能です。できることは、送金システムの早期復旧を促し、可能な限り支給の遅延を少なくすることです。

ただ、翌月の給与支給日に同じ障害が発生する可能性がないとは言えませんから、社員数の多い支給者であっても、何らかの代替手段で支給日に給与を支払える準備を行わなければなりません。

これは、支給者の業務負荷が増大するとしても、受給者の利益を図るという支給者としての職責からのものです。負荷増大分の補填をシステム提供者側に求めることとは別の問題です。

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2024年4月15日 (月)

カスハラ対策は顧客対応の基本であること

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

このところカスタマーハラスメントが社会問題化しており、その対策については国がマニュアルを示すなど、様々に論じられています。ただ、それらはカスハラに限ったことではなく、顧客対応方法の基本に過ぎません。

例えば厚労省のマニュアルでは、「基本方針・基本姿勢の明確化、従業員への周知・啓発」「従業員(被害者)のための相談対応体制の整備」「対応方法、手順の策定」「社内対応ルールについての従業員等への教育・研修」「事実関係の正確な確認と事案への対応」「従業員への配慮の措置」「再発防止への取組」等が列挙されています。

これらはそのまま平常時の顧客対応や、カスハラ以外の緊急時の対応方法にも当てはまることが分かると思います。

弊社でも、平常時、緊急時(例えばシステム障害)ともに、「基本理念」の下「FLC&Sの教科書」第3章「行動基準」に従い、役職者が「相談対応体制」を担い「事実関係の正確な把握」を行った上で「基本方針」を定め「周知」し、「再発防止への取組」を進めることが大原則となっています。

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2024年4月12日 (金)

トイレから出たら手を洗うのはなぜ常識なのか

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

もちろんそれは衛生上の問題(細菌による感染等の防止)であることは間違いないことで、誰でも子供の頃からそのように躾けられてきたと思います。ですから、今、ここで「トイレの後には手を洗いましょう」などと言うと、いい大人の集団で、小学生じゃあるまいしと思われることでしょう。しかし、いい大人でもそういう習慣がない人がいます(15%という消費者庁の調査があります)。

昔私が大学の同級生に手を洗えと言うと奴は「汚いものには触っていないんだから良いんだ」と言い放ちました。私も私で、なるほど、それが豪快な男の考え方なのかと納得してしまったというお粗末さ。

しかし、小学生と違って大人の手洗いはマナー(礼儀作法)でもあり、どこに触ったとか触らなかったかとかの問題ではないのです。

マナーとは人に不快感を与えないためのものです。トイレから出ても手を洗わないような方と一緒に仕事をするのが平気(不快だと感じない)な方は小学生並みの感性しか持ち合わせていない、などと言ったら今の小学生には叱られる?

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2024年4月11日 (木)

いわゆる短所は長所の一側面であることに気づくこと

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

素直になれないことで人が離れて行くのを防ぐ方法として、昨日書いたようなしくみを作るためには、ものの見方を変えられることが大前提です。

それは、いわゆる長所と短所はそれぞれ独立した別個のものではないということです。つまり、素直でないことは改めるべき短所でなく、自分の持つ資質に必然的に伴う一側面であることに気付くことです。

その資質は、クリフトンストレングスの中では「自己確信」が近いと思います。もちろんこの資質が上位にある方は、それを強みに変えて成功につなげて行くべきですが、同時に、そこに内在する弱点についても認識することが大切です。例えば傲慢さ、自信過剰、頑固さなど、素直さを阻む一面です。

これが分かれば、それを短所として単純に否定しようとは考えなくなるはずです。

もっとも、そもそも人の話を素直に聞けない人は、このような話も聞かないでしょうし、仮に聞いたとしても自分がそれに当てはまるとは夢にも思わないでしょうから、周囲の方がそれに気づかせてあげるしくみも必要です。

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2024年4月10日 (水)

素直さも資質なので足りなければ他で補えば良いだけのこと

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日の主題(素直さ)は様々な「教訓」と関連しています。

例えば、失敗を恐れないこと。これは、失敗そのものを恐れないという意味もありますが、失敗を認めることを恐れないという意味もあります。つまり、自分が失敗したことを素直に認めるということです。

失敗には大小様々なものがあり、例えばちょっとした勘違いや認識の間違いといったものも含まれます。そういう小さなものでも、自分の未熟さを取り繕うために、失敗そのものを素直に認めようとしないことがあります。

しかし、そういう態度を取り続ける方からは人は離れて行ってしまいます。

そして、この、素直さがないために人が離れるという「失敗」を防ぐ、即ち人が集まって来るようにするためには、素直さという個人的資質をどうにかするのでなく、「しくみ」をつくるしかありません。

例えば、問題点を指摘してもらえる環境をつくる(心理的安全性をつくる)ことや、他者(特に部下や、年少者、後輩)への敬意を再認識するために自分の態度や言動を見直す、などです。

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2024年4月 9日 (火)

自分で考えることと人の助言を素直に聞くことは矛盾しないこと

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

先日、あるスポーツのコーチの方から伸び悩んでいる選手の話を聞く機会がありました。惜しいところまで行くのですが今一つのところで上に行くことが出来ていない選手だそうです。

その方が仰るには、その選手は自分のやり方にこだわりが強く、コーチはもちろんのこと、人のアドバイスをなかなか聞こうとしないそうです。

過去に人のアドバイスを聞いて失敗した経験があるのではないかとのことでしたが、人のアドバイスを素直に受け入れることの重要性は私達の仕事でも同じですのでそういう話をさせて頂きました。

自分自身の考え方や信念、そして能動的思考は大事ですが、それに従って失敗することはあります。

そのときに助言して下さる方がいるか、そしてそれを素直に聞けるかどうかでその後の成否が決まってくるのではないかと思います。

素直に人の話を聞ける人のところには適切な助言をしてくださる方が集まって来ます。それは社内でも社外でも同じです。

そして、考え方や理念も失敗を重ねて成長していくのだと思います。

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2024年4月 8日 (月)

ルールを正しく知らなければ正しく論じることはできないという当たり前のこと

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

大きくなった雪だるまを転がすためには大きな力が必要ですが、その力の一つにルール(全社共通の決まり事)があります。そしてルールは守られなければならないのは当たり前のことです(「ルールのルール」)。守るためにはルールを知らなければならず、研修等ではルールについても当然指導されます。

ところが、明文で定められているルールが都市伝説のようになってしまったり、矮小化されてしまうこと(「○○すると✕✕さんに𠮟られるから」「○○することは✕✕さんが嫌いだから」)があります。

そこまでひどくはなくても、ルールを正確に認識していないことは珍しくありません。つまり、ルールに関してもファクト(事実)つまり正確な内容(法律で言えば条文の記載)がないがしろにされる嫌いがあるということです。

法律家は常に六法全書を手元に置き、常にそれを参照します。そうでないと正しい法解釈が行えないからです。社内ルールでもそれと同様に、ルールを参照し正確に把握する努力が必要です。

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2024年4月 5日 (金)

マインドセットを備えていても・・・

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日は研修でマインドセットの話をしました。各人が一定のマインドセットを身につけることはFLC&Sの成長には不可欠です。

しかし、当たり前ですが、メンバーの中には研修を施すまでもなく、既に一定のマインドセットを身につけている方がいらっしゃいます。

例えば「能動的思考」(旧「法的思考」)というマインドセットがあります。これは、様々な情報に接した時にその真偽や正当性、合理性、効率性を疑い、根拠を考えるというものです。

昨日も複数の方がこのマインドセットを駆使してあるルールの合理性に疑いをさしはさむ意見を述べました。この意見には一定の合理性があると感じましたのでルールを見直したところ、そもそもルールの把握が(私自身も)不正確だったことが分かりました(詳細は別途)。

しかし問題はマインドセットを生かすしくみがないことです。能動的思考から生まれた意見も、研修という機会がなければ日の目を見なかったかも知れません。

これはチームビルディングセッションを機能させるチャンスではないでしょうか?

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2024年4月 4日 (木)

FLC&Sを雪だるまに例えてみる

(今朝のFLC&S社内ブログ「ニュース共有」より)

最近FLC&S(フクダリーガル)の規模の拡大について考えるとき、よく「雪だるま式」という言葉が思い浮かびます。この表現は悪い意味で使われることも多い(「借金が雪だるま式に増える」)ですが、良い意味としても使われます。私は「大きくなれば大きくなるほど、規模拡大の速度が速くなる」という意味で捉えています。

そうなる理由は多くの要素の複合です。規模の大きさはそれだけで対外的な信頼度を高める効果がありますが、それだけではなく、諸施策への投下資本を増やすことができます。
施策の内容は、マーケティングや営業活動、業務知識・技能の向上、生産性改善・効率化、マネジメント力、人間関係構築や心身の健康維持のための環境整備、などなど、多岐に渡ります。

雪だるまが大きくなれば、それを転がすためにも大きな力が必要になりますが、これらの施策がその力となります。そして、転がれば転がるほど多くの仕事依頼の獲得につながり、規模が拡大し、さらに大きな資源を獲得していくという好循環が回って行きます(行くはずです)。

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2024年4月 3日 (水)

自分たちが「餅屋の雄」だということを改めて認識してほしいこと

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

FLC&S(フクダリーガル)は創設時から裁判業務及び後見の受託には消極的な方針をとって来ました。最近は家族信託についても同様の方針をとっていますが、これにはいわば「餅は餅屋」という考え方が根底にあります。

裏返せば、餅を扱いたいなら餅屋と同じ技量を身につける必要があるということです。家族信託の場合は(民事信託に長けた)弁護士と同程度以上の専門的技量を身につける必要があり、それは登記業務の片手間に行えることではありません。

もっとも登記業務で「餅屋」になることも片手間にできることではありません。依頼者に言われたことをそのまま申請するだけではなく、幅広く、クリエイティブな専門的技量を備えていることが必要です(日々実務にあたっている皆さんは身に染みて理解していると思います)。

他士業が登記(特に不動産登記)に容易に参入できない理由も「餅は餅屋」というところにあるのです。

しかも私達は、1日に数千件の登記申請を行える「餅屋の雄」(専門家の中の専門家)なのです。

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2024年4月 2日 (火)

自分が謝罪すべき失敗を犯しているか考えてみる必要があるという話

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

Aさんは、離れて住む母親から「TV通販で美顔器買ったから今日中に代金を払って」と頼まれ、ネットで送金しようとしましたが、システム障害のためその日は送金が出来ませんでした。

もちろん別の手段(銀行窓口での送金等)もありましたが、時間もなくそれはできませんでした。

母親は、支払い済み通知が来ないので気をもんでいましたが、Aさんからは何の連絡もありません。人気の商品なので売り切れる可能性があります。

翌日、障害が回復したのでAさんは送金をやり直し、母親にも通知が届きました。

母親はAさんに「どうして遅れたの、何の連絡もよこさずに。心配していたのに。謝りもせずに」と詰りました。

Aさんは自分のせいではない遅延について安易に謝って落度を認めたくはありませんから、「私は悪くない」と謝りませんでした。

すると母親は当然怒り、その後感情的な応酬が続き、現在は絶縁状態になっています。

Aさん、確かに落度がないことは謝ってはいけませんが、連絡をしなかった点は謝ってもよいのでは?

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2024年4月 1日 (月)

失敗が目立つほど、良い会社なのかもしれない

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

逆説的ですが、こういうことです。失敗があまり目立たない会社が必ずしも失敗が少ないとは限らないのではないか。単に失敗が潜在化してしまっているだけなのではないか。潜在化した失敗は放置され、繰り返され、あるいはさらに重大化し、そうなって初めて問題視され、修復不能に陥ってしまう。

逆に失敗が目立つ会社は、失敗が潜在化せず常に問題視され、重大化する前に修正されているのではないか。

両者の違いは失敗を指摘する意識、風土の違いから生じるのではないか・・・。

これは社会の様相と似ています。以前に比べて企業の不正や、いじめ、ハラスメント、マイノリティー差別や女性の生理に関する扱いなどの問題が指摘されることが多くなりましたが、それは社会の目が厳しくなり、問題を指摘しやすくなったからです。

では、弊社の場合はどうでしょうか。こういった問題(の指摘)が少ない(と見える)のは問題が存在しないからなのか潜在化しているからなのか。問題意識は高いのか低いのか。指摘しやすい環境はあるのかないのか・・・。

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