考えること、疑うこと(その3)
(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)
昨夜、みつ葉グループさまのご依頼で講演をさせていただきました(内容は先日の青山の会さまと同じく「地面師と新・中間省略登記」)。60名程の不動産事業者の方々にご参加いただいたとのことでしたが、zoomでの講演で受講者の反応が全く分からず、対面とは異なるやりづらさがありました。
では、昨日の続きです。
司法書士が日常的に扱っている登記手続きの殆どが「問題がない」とは、何を意味するのか?
昨日、司法書士は実体関係の成立には責任を追わないという考え方(社会の評価)はある裁判例を機に変わってきたはずだ(そう願う)と申し上げました。
この裁判例(東京高裁平成27年 4月28日判決)は「登記申請意思の真実性に疑念を抱かせるに足りる客観的な状況がある場合には,これらの点について調査を尽くし,上記の疑念を解消できない場合には,依頼業務の遂行を差し控えるべき注意義務を負っている」と言っています。
これは、司法書士が実体関係にも一歩踏み込んで判断をすべきとした画期的な判決だと思うのです(敗訴した司法書士には気の毒ですが)。
しかし一方で、取引の大半が問題のないものであり、さらにそれ故、司法書士は関係当事者から「滅多にないことなのだからうるさいことを言う必要はないのではないか」という圧力にもさらされています。
こういう環境は、司法書士が考える習慣を失う方向に働きます。
ところで、なぜ問題のない取引が大半だと言えるのでしょうか?
それは、一つには現在の不動産取引が一定の確立した法制度(民法等の実体法や登記法などの手続法、宅建業法などの当事者保護法)の下で、一定の遵法精神のある人々によって担われているため、問題のある取引そのものが少なくなっているからです。
もう一つは、数少ない地面師など「問題のある」取引についても、(少なくともフクダリーガルでは)回避する手段がある意味確立していると言ってもよいからです。皆さんはフクダリーガルが地面師の被害に会うとは考えられないのではないでしょうか(それが「認知バイアス」を生み被害の原因ともなることー青山の会や昨夜の講演で話したことですーは置いておいて)。
そうすると、むしろこれは、余計なことを考えなくても問題なく仕事ができるということだから、考える習慣など不要ではないか、という話になります。確かにそれも一つの考え方です。
(続きは明日)
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