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2022年4月12日 (火)

考えること、疑うこと(その2)

(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

(昨日からの続き)

昨日お話しした、「司法書士が置かれてきた環境」を一言でいうと、「司法書士の仕事は決まったことを手続きするだけのものだから、決まったことについて責任はない」という評価です。訴訟でも、司法書士に損害賠償責任を問わない(あるいは極めて少ない責任割合)とする判決理由にそういう趣旨のことが書かれていました。
こういった社会的評価は、数年前のある上級審の裁判例を機に変わって来たはずですが(そう願います)、長い間こういう環境下にあった司法書士の姿勢は容易には変わらないのではないでしょうか?
司法書士は手続きに長けていればよいのであり、手続きのこと以外は考えなくてよい、という事です。そして、手続きに長けたベテラン司法書士は、手続きのことすら考えなくても仕事ができてしまうようになります(極端な言い方かもしれませんが)。つまりうかうかしていると考える習慣がなくなる危険性があるのです。
ベテランでなくても、日常の定型的な業務に流されていると、考える習慣がなくなる恐れがあります。

さて、考える習慣を失わせる危険性を孕む、もう一つの「司法書士が置かれてきた環境」とは何でしょうか?

それは、司法書士が日常的に扱っている登記手続きの殆どが「問題がない」ことです。例えばフクダリーガルでは昨年約3万件の登記申請手続きを行いましたが、問題(法的問題)があるとして私のところまで上がって来たものは皆無でした(多い年でも2~3件です)。
これは何を意味するでしょうか?

(続きは明日)

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