エリートと教養
(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)
昨日株式会社ゲイトさまの「凄い」ペットフードを受け取られた方々、是非ワンちゃん猫ちゃんの「感想」を聞かせてくださいね。
さて、科学史家、科学哲学者(東京大学名誉教授)の村上陽一郎さんの「エリートと教養」(中公新書ラクレ)という本を、読売新聞の書評欄で見つけ気になったので「ネット立ち読み」(総合書店honto)をしてみました。
その中で非常に印象に残った一文がありますので、そのまま引用(貼り付け)します。著者が「教養」について書いている部分です。
〈ちょうど玉ねぎの皮むきのように、「自分」から、自分が引き受けている社会的役割を、一つ一つ引き剝がしていったとして、最後に何が残るでしょうか。いや残るものがあるでしょうか。私は「ある」と答えたい。そして、その最後に残るべきものを、自分のなかに見付け、それを耕し、それを育てる、それを自分が生きた証としようと努力を重ねる。そこに「平等」を超えた一人一人の人間の姿があり、その努力をこそ「教養」と呼ぶのではないでしょうか。〉
自分は、自分から社会的役割(著者はその例として、生徒、学生、会社員、教師、妻、夫、そして男、女、などを上げています)を剥がしたら残るものがあるのか?
この問はこのあとまだ少し(あるいは案外長く)続く自分の人生の一つの課題になるかもしれないな、と思いました。
みなさんはどうお感じになりましたか?
ところで、私がこの本が気になった理由は、書評(同紙特別編集委員の橋本五郎さん)の見出しに「日本語の乱れ 警醒の書」とあったからです。
私もどちらかといえば日本語の乱れが気になる方です。「フクダリーガルの教科書」にも少しそういった類のことが書いてありますし、気になる言葉遣い(所謂バイト敬語など)に接したときは「指摘」したりもしています。
ただ、時々自信がなくなります。私の気になる言葉が多くの場面で多くの方に使われていることがよくあるから、というばかりでなく、なぜその言葉遣いが気になるのか、説得力のある説明ができないものも多いからです(ですので「指摘」の仕方も、「そういう言葉遣いを不快に感じる方も少なくないと思う」などといった腰の引けた言い方になります(笑))。
そこで、本書でその根拠が見つけられる(自分で考えたり調べたりする労力が省ける)のではないか、と思ったわけです。「立ち読み」ではそこの部分までは読めませんでしたので、是非購入して(アマゾンでなくhontoで取り置きをしてもらって)読んでみようと思います。
| 固定リンク | 0
コメント