2026年8月18日 (火)

大きく考える 6

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

さらに考えてみれば部分か全体かは相対的なものです。部分最適は当該部分にとっては全体最適です。全体最適もさらに上位の全体にとっては部分最適です。

そして最適かどうかも相対的な概念です。他と比較することによって初めて可能になる評価です。

ですから部分は先ず今が最適ではないことに気づかなければなりませんが、そのためには他との比較が必要です。他との比較という相対的な思考の中で全体に対する意識も生まれます。

最適でないことに気づいたなら最適を目指して改革・改善を行わなければなりませんが、最適を実現出来てもそれが永続する訳でもありません。時間が経てば陳腐化し、最適ではなくなります。ですから改革・改善はやり続けなければなりません。それが部分としての機能です。

相対的な存在である部分は全体としての機能も果たし得ます。部分は自己が部分であることを認識できなければ、部分最適も実現できません。逆に自分が部分であることを認識するということは、全体の存在を認識することであり、全体最適の視点を持ち機能を果たすことも可能になります。

組織の成長発展のためには部分の自己認識が不可欠なのです。

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2026年8月17日 (月)

大きく考える 5

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

すみません、少し(大きく?)軌道修正します。

部分が部分にとっての最適即ち部分最適を求めることは当然であって、そこには(推奨し称賛こそすれ)批判すべき点は全くありません。部分に対して全体最適を求めるのは筋違いでした。「部分の改革は全体の改革とは関係ない」と考えるのは、むしろ自然なことです。

また、ここで言っている「関係ない」とは、他の部分の改革の有無が当該部分には直接影響しない、あるいは他の部分のことは他の部分で考えるべきだという意味(これも正論)だと理解しながら、当該部分が他の部分と全く関係がないと認識しているかのように、論点がすり替わってしまっていました。

そして、全体最適を求めるのは「全体」の機能です。こんな当然のことに気が付かず、お恥ずかしい限りです。もちろん部分(の構成員)がそれを考え実現しようとすることは可能であり望ましいことですが、それは全体としての機能を果たすということで、部分の本来的な機能ではありません。

各部分がそれを意識しなくても日常の組織活動が回っていることに問題を見出すのは「全体」の機能です。

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2026年8月14日 (金)

大きく考える 4

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

当事者意識がない、つまり自分には関係がないという意識は自然なことだとも言えます。 

例えば、ある組織(全体)に所属する人が、自分が行っている仕事のやり方が合理的でない(無駄な時間や労力が費消される)と感じて、自分の属する領域(部分)での仕事のやり方を改善しましたが、他の部分は自分には関係がないと思い改善を行わなかったとします。

この「関係がない」は、自分に直接影響がないという意味でもあるでしょうし、他の部分のことは他の部分で考えればよいという意味でもあるでしょう。いずれにしても(他にも自分の領域で改善すべき点があって忙しい)自分とは関係のないことだと考えても致し方ないと思います。

しかし、本当に関係がないのかどうか、一度考えてみるべきだと思います。一つの組織の一部分と他の部分とが全く関係がないということは通常はあり得ないからです。そもそも組織というものは、部分と部分の関係があることで成り立つもので、もしそれがないとしたらもはやそれは組織ではなく単なる人の集合(烏合の衆)に過ぎません。

そして、部分(とその所属者)は組織メリットを享受しているのです。

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2026年8月13日 (木)

大きく考える 3

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

このような事例(改革の対象となる問題が全体に共通したものであるにも関わらず改革策が部分にしか適用されていない)なら、単に改革を全体に広げて行けばよいだけなので、そもそも部分最適という捉え方で問題視する必要もないのかもしれません。

もちろんこの場合もなぜ全体に広がらないのかを考え、その原因を取り去る必要はあります。

それは部分のものと全体のものが相互に関連しています。部分の原因としては、例えば他の部分との連絡が上手くとれていない、あるいはとろう(情報共有)という意思がない、等が考えられ、全体の原因としてはその(連絡や情報共有の)環境やしくみがない、等が考えられます。

それらについてもさらに、なぜそうなるのか理由を考えます。

そして、理由の一つとして浮かんだのが「大きく考える」(広く大局的に全体を捉えようとする)ことをしない、そしてそれをさせる環境やしくみの必要性を感じないないことです。

もちろんその理由についても考えます。なぜ大きく考えることをしないのか。この理由の一つについてある方がこんな見解を示して下さいました。

それは「当事者意識のなさ」です。

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2026年8月12日 (水)

大きく考える 2

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「大きく考える」という表題は、部分最適という問題を解決するためにはどうしたらよいか、と考えている中で浮かんだ言葉の一つです。

問題解決手法に関しては以前ここでも考えましたが、まず問題事実を正確に把握し、次にその原因を考えるという手順をとります。

こう書くと簡単なようですが実際には出来ていないことが多いのです。世の中では日々様々な問題が発生し、対策が立てられます。しかしその全てが的確で再発防止に有効なものだとは限りません。

まず問題事実を冷静に認識することができません。仮に事実を認識できてもその重要度の判断(発生確率)を誤ります(ヒューリスティックによるバイアス)。

次に急いで問題の再発を防止するために、あるいは対策をとっていることを見せることが必要なために、問題の原因が十分に分析できていないうちにモグラ叩き的な対策を立てます。

部分最適という問題についても同じことが言えます。

まず何をもって部分最適の問題としているのか、具体的な事実を把握します。今回私が部分最適の恐れがあるのではないかと考えたのは、一個人あるいは一部署が行った改革が全社の改革になっていないような場合です。

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2026年8月10日 (月)

大きく考える 1

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

部分最適や全体最適について考えるための格好の材料があります。

2015年に、司法書士の仕事の78%は10年〜20年以内にAIに置き換えられるという予測を立てた研究がありました。2017年の社内研修ではそれを手をこまねいて待つ必要はないという話をしました。

そして現在、既にその研究から10年以上経過し、今のところまだそこまでの置き換えは進んでいませんが、遅かれ早かれそれに近づいて行くことは間違いないと思います。

2017年の研修では、手をこまねいて待たずにAIに奪われにくい仕事にシフトすれば良いと言いました。現在のフクダリーガルはさらに進化して、情報システム部門が存在し、そこを中心としてAIを駆使する側に回る動きが始まっています。

また一方で各部署が、あるいはメンバー一人一人が主体的にAI導入の動きを行っています。それが出来るのがフクダリーガルの強みなのですが、そのままでは部分最適に留まってしまう危険があります。

つまり、個人や現場発の改革が、個人や部署内だけのものに留まらず、会社全体を、業界を、ひいては世界を変えていくうねりとなって行くものでなければならないのです。

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2026年8月 7日 (金)

人の見方 43

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「人の見方」という表題は、当初「人は『自分達は皆対等だ』という見方をしているのか」について書いたために付いたものなので、「人は皆対等か」といった表題でも良かったかも知れません。

しかしそれよりは少し上位の概念としてこれを表題にしました。それで、内容(下位概念)がどんどん移り変わっても変えずにここまで来ました。今の内容を直接反映した表題を付けるとすると、「教科書」とか「部分最適」といったところです。

ここでは興味の赴くままに好きなことを書いているだけで、私としてはずーっと繋がりがある話ですし、表題はある程度本質的なものにしたいので変える必要は感じなかったのですが、途中から読まれた方に「これのどこが人の見方やねん」と、余計な思考に労力を費させることになっても申し訳有りませんので、次回からは中身を反映した表題に変えることにしようかと考えています(といっても次回の中身が何になるかはまだ分かりませんが)。

ついでに言いますと、このよしなしごともニュース共有も自分で面白いかどうかが重要な基準になっています。

次は「面白い」かな。否、「部分最適」ですね。

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2026年8月 6日 (木)

人の見方 42

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

フクダリーガルの教科書を作ったそもそもの目的は昨日書いた通りで、その点は今も変わっていないと思いますが、その後教科書は意義を大きく変えて来ました。「嫌なこと」つまり接遇として行ってはならないことを禁ずるだけのものから、それが何のためなのかを考え、指し示すものへと成長して来たのです。

それが、現在のフクダリーガルの著しい成長の原動力となっていると思います。現場の一人一人が「未来を創る」「新しい価値を創り出す」という理念を共有し革新と創造を続けていることが、お客様にも評価され、右肩上がりの成長を続けることを可能にしているのだと思います。

もちろんそれ以前には教科書が接遇のルールとしての本来の機能を果たして来たことが、現在のフクダリーガルの礎(いしずえ)になっていることは言うまでもないと思います。

しかし、それが空回りしているところがあるのではないかと、(人の見方を通じて=人を見ることで)感じることがあるのも事実です。部署毎の、人毎の、あるいは教科書の規定の内容毎の違いがある、即ち部分最適になっているのではないかということです。

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2026年8月 5日 (水)

人の見方 41

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

フクダリーガルの教科書では挨拶・接遇の外形(方法)について、例えば「相手の目を見て、常に笑顔で元気な(大きな)声で、ハキハキとメリハリを付け、姿勢を正して、挨拶・接遇ができる」「朝、出社した時/『おはようございます!』/☆笑顔で、元気よく!!」などと定めています。

作るべき外形を具体的に示し、その通りに行うことを求めており、これは行動規則(ルール)に他なりませんが、このルールが守られているかどうかは皆さんが一番ご存じだと思います。

私自身教科書の見直しを行うなど、色々と考えてきましたが、教科書がルールとして機能しているのか、あるいはその他に何らかの意義があるのかはあまり考えて来ませんでした。

それには、まず、教科書を作ったそもそもの目的が20年以上経過した現在も変わっていないかどうかから考える必要があります。

これは「3年で10倍」の本にも書きましたが、フクダリーガル創設時に、それまで私が(特に相手方として)接して来た事務所や会社などの対応で「これは嫌だな」と思ったことを、フクダリーガルではなくそうと思ったのが教科書を作ったそもそものきっかけなのです。

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2026年8月 4日 (火)

人の見方 40

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

フクダリーガルの教科書では、あるマインドセットを「持たなければならない」という定め方をしています。しかし、ルール化出来るのは心のあり方ではなく行動のあり方であると考えると、教科書はルールではない、あるいはルールの定め方として間違ったものであるということになります。

そこで2022年の見直し(案)では、行動規制の形に修整することにしました。マインドセットを「持っているように振舞わなければならない」という定め方です。

しかしそれでも、教科書が外形を作らせることによって心(考え方、価値観、マインドセット)の変容を求めるという構造は変わりません。

そしてこのシリーズの中で、教科書は心を育てるものであるべきことに(遅まきながら)気がついた訳です。

但し、育てるとは自ら成長することを手助けすることで、心を育てるためには(手洗いのところで書いたように)さらにそこに自分で考えるという過程(能動的思考、批判的思考)を経ることが必要です。

フクダリーガルの教科書では挨拶について様々に外形をルール化していますが、さらにそれについて考える過程が必要です。

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