2026年5月20日 (水)

歩きスマホ 21

「意識して脳の他の部分を使う」などということは、普通はそう簡単にはできません。そこで逆に「ながら思考」を活用します。

つまり敢えて「ながら思考」を行うのです。食事を味わいながら、歯を真剣に磨きながら、一生懸命化粧をしながら、風呂で身体を隅々まで洗いながら、問題となっている事柄について考えてみるのです。

そうすると否応なく脳の他の部分を使って問題を考えなければならない。それで問題の違う側面を見ることができ、バイアスから解放されます。

つまり発想の行き詰まりの原因の一つは認知バイアスにあるということです。問題の答えが見つからない、さらには問題点がどこにあるかすらわからないという時は認知バイアスにとらわれている可能性があり、この方法でバイアスから解放され問題の糸口や解決のヒントが得られるかも知れないのです。

例えばよくありがちな、「仕事が同じことの繰り返しでつまらない」という悩み(?)も、このやり方で答えを見つけられるかも知れません。「ながら思考」で、それまで気づかなかったその仕事の側面に気づき、つまらないのはその仕事ではなく自分自身の仕事への向き合い方だったんだということに気づくとか。

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2026年5月19日 (火)

歩きスマホ 20

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「『ながら思考』をする時は、それをしない(考えることに集中している)時には使わない脳の部分も動員しなければならないから、新しい発想が生まれる」という仮説を立ててみました。

今度はこれを「ながら思考」以外の場面にも応用できないかと考えました。

例えば発想に行き詰まった時に意識して脳の違う部分を使うことで、行き詰まりを解決することができるのではないか。

発想の行き詰まりの解決には、ものごとを他の角度から見る、一つのものの他の側面を見てみるということが有効なのではないかと思います。

脳の違う部分を使うことによって、ものごとを多角的にみることができるのではないかという発想です。

そして人にはものごとの一面にとらわれやすく、意識して別の側面を見ることは難しいという特質があります。これが「認知バイアス」であり、そこから解放されることは一般的に難しいとされています。

意識して脳の他の部分を使うことは、認知バイアスから解放される一つの方法になる可能性があると考えられるます。

ただ、普通は意識して脳の他の部分を使うのは難しいと思います。

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2026年5月18日 (月)

歩きスマホ 19

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

前に書きましたように(「歩きスマホ 7」)私が「ながら思考」に興味をもったきっかけは、自分がある「ながら〇〇」をやめたことでした。「ながら〇〇」をやめてももう1つのことに意識を集中させることにはならず、思考を巡らせることに意識を移すことになりました(同「8」)。

主に本の原稿やこの「よしなしごと」の修正などに意識を向けてみたのです。するとこんなことが起こりました。

パソコンやスマホに向かって全神経を集中させて考える時とは少し違った観点から問題を俯瞰するような感覚が得られたのです。

それによって、それまで浮かばなかった気付きがふと湧いてきたりするのです。「ひらめき」のように何の脈絡もなく新しい考えが浮かぶのもそんな時のような気がします。

なぜこうなるのか? これも前に書きましたが(「9」)、使ったことのない脳の部位を使うからだと思います。

つまり「ながら思考」の時は、同じテーマに意識を向けていても、それだけを考えている時とは違い同時に他のことにも脳を使っているため、違う脳の部位を使わざるを得ないということなのではないかということです。

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2026年5月15日 (金)

歩きスマホ 18

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

前回「ながら食事」の機能は「相乗効果」と考えるべきではないかと書きました。このように書きますと、積極的側面(メリット)にのみ着目しているように思われるかも知れませんが、「ながら食事」にももちろん消極的側面(デメリット)があることは「歩きスマホ」など他の「ながら〇〇」と同様です。

逆に「歩きスマホ」については消極的側面から書き始めましたが、どんな問題でもどちらか一つの側面からのみ論じるのは公平を欠きます。少なくとも歩きスマホをする方達自身にとっては積極的な意味(メリット)があることを無視することはできないと思います。

公平という言い方は言葉の使い方としては少し違うかも知れませんが、ものごとの是非を検討する場合に多角的な考察、即ち積極消極両面の検討が必要なことは間違いないと思います。

さて、私が最も気になっていた「ながら」とは、「何かをしながら考えごとをすること」です。言ってみれば「ながら思考」です。

これはそんなに珍しいことでは有りませんが、色々なケースがありますし、積極消極両面から論じることができます。

私がこれが気になったのは、自分自身の体験からです。

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2026年5月14日 (木)

歩きスマホ 17

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

食事をどう捉えるかや「ながら食事」がそれとどう関わるかを問題にすることに「意味はない」と書きましたが、誤解を招きそうですので説明しておきます。

「ながら食事」の食事への関わり方について当初
① 食事が本来備えている価値をより引き出す
② 食事に足りないものを補う
の2つの場合があると考えましたが、これらの違いは主観的なものに過ぎず、客観的には「相乗効果」と考えるべきではないかということです。

ただし、こういった「観点」ないし「思考過程」自体に意味がない訳ではなく、(訓練ではなく)新しい気付きをもたらす可能性が高いとは考えています。

ところで、ここまでの話はもちろん「ながら食事」に限ったことではなく「ながら〇〇」全てに当てはまることだと考えています。

歩きスマホについても、上記の「観点」「思考過程」によってその意義をより多角的に、あるいはより深く考えることで、歩くことそのものの意義や、歩くことの未知の可能性を発見することができるかも知れません。

さて、実は私が最も気になっていたのはここまで書いた以外の「ながら」なのです。

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2026年5月13日 (水)

歩きスマホ 16

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

前回「思考訓練」という言葉を定義付けもせず安易に使ってしまいました。一般的にこの言葉は「論理的思考の訓練」の意味で使われているのだと思いますが、「論理的思考」自体抽象的な概念で、一言で分かりやすく説明することは難しく、その要素の一つ一つを検討するしかないと思います。

もちろんこの「よしなしごと」は(論理的)思考訓練の場ではありません。私自身、疑問に思ったことを放置するのが気持ちが悪いので、(独り善がりですがある程度の)納得が行くまで考えているだけです。

もちろん自分が納得した理由付けが、多くの人の賛同を得られる(説得力のある)ものであれば、それは「論理的」なものに近くなっている可能性は高いと思いますし、そのような結論を導き出す過程は、ものごとを多様な角度から考えることや、「能動的思考」(これに関しては以前定義付けしています)の訓練にはなるのかも知れません。

さて、前回の最後に「食事をどう捉えるかや『ながら食事』がそれとどうかかわるかを問題にすることにあまり意味はない」と書きました。この意味を説明します。

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2026年5月12日 (火)

歩きスマホ 15

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

前回、「ながら食事」は多種多様なので今度は積極的な意味を持つ「ながら食事」について考えて見てみよう、と書きましたが、実はそれは食事自体をどう捉えているかに関係しています。

食事を消極的に捉えたときに人が取る行動は、「ながら食事」によって全体的に食事を積極的なものに変えるか、食事そのものに改変を加えて積極的なものにするか、あるいは何もしないかです。

食事を積極的に捉える、即ち食事の持つ喜びや楽しさ、魅力を認識したときにとる行動は、何もしない(「ながら食事」をしない)か、「ながら食事」をする場合は食事の積極的側面をより強め、高めるために行われることが多いと考えられます。

食事を積極的に捉えた場合の「ながら食事」の例としては、その食事を話題にして人と会話しながら食事することや、眺望を楽しみながら食事をすることなどが挙げられると思います(食事に合わせたお酒やお茶を嗜みながらというのもそれに当たるかもしれません)。

もっとも、食事をどう捉えるかや「ながら食事」がそれとどうかかわるかを問題にすることにあまり意味はないかも知れません(思考訓練としての意味は別として)。

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2026年5月11日 (月)

歩きスマホ 14

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「ながら食事」をしない理由(場合)の一つとしてこんなことも考えられます。例えば食事に何かを求める(何かを与えられるのを期待する)のではなく、積極的に何かを得よう、見つけ出そうとする場合です。
大袈裟に言えば、食事に対して問題意識を持ち、自ら解決しようとする場合は「ながら食事」はしないということです。

また、私の場合は新聞を読みながら朝食を摂るのをやめたのですが、それは双方の効率を上げるためでした。「ながら」は「コスパ」が良いと思って始めたのですが、食事を済ませてから新聞を読むことにし、それぞれに集中した方がかえって短時間で双方の成果(食事を十分味わうこと、ニュースを十分吟味すること)が上がると感じています(合計時間は「ながら」の場合より短い)。

さて、このように、これまでどちらかと言えば「ながら食事」をする理由について主に受動的なものをとらえ、それをしないことに積極的な意味を見出すことを中心に考えて来ました。

しかし、これまで見たのは多種多様な「ながら食事」のほんの一部に過ぎません。

今度は、それをすることに積極的な意味を持つ「ながら食事」について考えてみましょう。

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2026年5月 8日 (金)

歩きスマホ 13

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

人が食事に対して(空腹を満たすことの他に)何を求めるかは、人により場合によって様々だと思いますが、こういうときは求めているものが得られているから「ながら食事」をしないだろうという場面は有ります。

例えば、美味しさで人気の有名飲食店に長時間並んで(予約待ちをして)やっと入れた時は、食事だけに集中し、「ながら食事」をする人はきっといないでしょう。

この場合その人が食事に求めているものは美味そのものやその意外性に対する驚きや、それを己の舌で確かめること自体の喜びであり、その店ではそれらが満たされるので、「ながら食事」をするに及ばないのだと考えることができると思います。

一方、日々の三度々々の食事がルーティン化し変化がなくなり、美味や意外性や驚きや喜びを感じることが少なくなると、他のことにそれらを求めて、「ながら食事」をする可能性は高くなると考えることができます。

もちろん様々な理由から敢えて食事にだけ意識を集中しようと努力をすることもあり、その時は当然「ながら」はしません。

そして、「ながら食事」をしない理由は他にも色々と考えることができます。

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2026年5月 7日 (木)

歩きスマホ 12

(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「ながら食事」をする精神的メリットの一つである「楽しさ」の意味は人により場合によって違うでしょうが、一つには、その食事に不足しているものを他のこと(会話や読書やゲームや動画やSNS)で補うという意味があるのではないかと思います。

つまり何かが不足していて楽しくない食事時間を別のもので補って楽しい時間に変えるということです。

では、人が食事時間に不足を感じるのはどんな時でしょうか。言い換えれば、人は食事にどんなものを求めるのでしょうか?

もちろんその第一のものは生きるための栄養の摂取です。それだけを求める人は「ながら食事」をすることはないでしょう。

例えば三日三晩砂漠を放浪して水しか飲んでおらず、空腹で死にそうな人が食料を与えられた時、その人は「ながら食事」をしないでしょう。

この時は無我夢中で咀嚼して飲み込む事だけで、他のことをするなど考えもしないでしょう。空腹を満たして命を繋ぐことだけがその人が求めるものの全て、「楽しさ」の全てだからです。

しかし、栄養が、人が食事時間に求めるものの全てでは有りません。だからこそ人は「ながら食事」をするのです。

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