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2024年6月27日 (木)

今日も普通に使う一つの言葉に立ち止まる

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「普通」という言葉(の使われ方)について考えてみました。

例えば「普通、『お疲れさま』は挨拶に使いますよ」などと言われることがありますが、そう言われても「はいそうですね」とはなりません(「みんな使う」も同じです)。

この場合「普通」を自分の主張の正当性や優位性の根拠として使っています。つまり、自分の主張は大多数に支持されているという主張です。

しかし、まず、普通(=大多数)かどうかが怪しい。「普通」という言葉を使う場合、その点についての明確な根拠がないことが大半です。推測・憶測・主観に基づいているだけです。

次に、大多数の支持があるから正当ないしは合理的であるとは限りません。この発想ではイノベーションは永遠に起こせません。あなたが日頃の業務のやり方に疑問を持ったときに、「普通」(「みんなが」、大多数が)そのやり方をしているからといってそれが合理的である(生産性が高い)とは限りません。

人を説得する根拠として「普通」を使うのは横着なだけでなく、危険であるとあなたは感じませんか?

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