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2024年6月28日 (金)

「普通〇〇だ」や認知バイアスの影と光

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

主張の根拠を「普通」という概念に依存することは問題ですが、一方「普通」を基準とした物事の判断が効率的な場合もあります。

例えば、親戚の告別式に包む香典の金額を相談した相手が「普通は○○円位」と答える、といった場合です。通常は相談相手(媒体やAI?)が信頼できるのであればそれ以上の詮索(本当に「普通」なのか)はしません。

同じように効率的な、あるいは迅速な判断を可能にするのが、物事の一部の情報だけて判断するという方法です。

この判断手法は、迅速な判断によって危険を回避するしくみとして人類が身につけて来た知恵であり、情報が氾濫し「タイパ」が重視される多忙な現代社会では不可欠になってしまっています。

しかし一方で「認知バイアス」「偏見」「レッテル貼り」「決めつけ」「憶測」などネガティブな側面も多く、適切に制御しないとハラスメントや心の病といった問題に直結します。

私達FLC&Sは、成長過程の中でも立ち止まってこれらの問題を考える余裕のある組織開発・人材開発をして行かなければなりません。

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2024年6月27日 (木)

今日も普通に使う一つの言葉に立ち止まる

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「普通」という言葉(の使われ方)について考えてみました。

例えば「普通、『お疲れさま』は挨拶に使いますよ」などと言われることがありますが、そう言われても「はいそうですね」とはなりません(「みんな使う」も同じです)。

この場合「普通」を自分の主張の正当性や優位性の根拠として使っています。つまり、自分の主張は大多数に支持されているという主張です。

しかし、まず、普通(=大多数)かどうかが怪しい。「普通」という言葉を使う場合、その点についての明確な根拠がないことが大半です。推測・憶測・主観に基づいているだけです。

次に、大多数の支持があるから正当ないしは合理的であるとは限りません。この発想ではイノベーションは永遠に起こせません。あなたが日頃の業務のやり方に疑問を持ったときに、「普通」(「みんなが」、大多数が)そのやり方をしているからといってそれが合理的である(生産性が高い)とは限りません。

人を説得する根拠として「普通」を使うのは横着なだけでなく、危険であるとあなたは感じませんか?

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2024年6月26日 (水)

一つの言葉に立ち止まってこだわる

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

ある言葉に違和感を感じ少し考えました。

先日の「顔しかめ実験」を紹介した記事では、子供が顔真似を続けたことを「純粋な行動」だとしています。

「純粋」は通常「欲やかけひきがない」という意味で使われますが、ここでは「悪意」、即ち、傷つけ、蔑むなどの否定的な気持ち(ここでは「哀れんだり、無視したり」と言っています)がない、という意味で使われています。

つまり大人も子供も「純粋な行動」をとるべき、つまり偏見に満ちた悪意のある行動はとらないようにすべきだという文脈です。

それ自体は良いのですが、仮に大人が顔真似をしたらそれを「純粋な行動」と言うことには違和感があります。悪意ある、または子供じみた行動と言う方がしっくり来ます。

この場合使うなら「純粋」でなく「未熟」だったと思います。子供の行動も、純粋さではなく、未熟さ(気付きや気配りができない)のなせる技です。

ただ、同じ顔真似でも大人であれば「悪意」があるように見られ、子供であれば「純粋」に見られ勝ちです。これもよくある偏見だと思います。

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2024年6月25日 (火)

立ち止まったらまた歩く、ということ

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

良く考えてみますと、大人が誰でも意図的に立ち止まってものごとを考えることができるとは限りませんね。昨日の実験で、障害のある(であろう)方の顔真似をしなかった(できなかった)方も、理由は他にあるかも知れません。

もちろん顔真似の是非を考えた方もいると思いますが、単にその実験に驚いたり違和感を感じただけかも知れません。顔をゆがめる動作だけを取り上げて、所謂「障害者と健常者」を比較するなどということはあまりないことだからです。

ところで偏見とは文字通り「偏った見解」です。多様な側面を持つ事物の一側面しか見ないことを指すのだと思います。

ただ、誰にでも最初は物事の一側面しか見えません。そこで立ち止まることなく他の側面も見ようとすることで、色々な側面が見え、やがて事物の本当の姿を捉えることができるようになります。

いわゆる「障害」も、人間の一側面に過ぎませんから、最初はそこしか見えなくても(偏見)、立ち止まらずに他の側面も遍く見ようとすれば、その人の姿を正確につかむことができる筈です。

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2024年6月24日 (月)

偏見について立ち止まって考える

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

時々当欄の感想をチャットして下さる方から、「見た目問題」についてもコメントを頂きました。そこに、フランスのある団体が行った社会実験を紹介する日本のサイトが紹介されていました。

その実験は、何組かの親子にスクリーンに映し出される人が顔をゆがめる様を真似させるというものです。何人か写し出される中の最後の人物は、恐らく何らかの原因があり意図せず顔がゆがんでしまうと思われる方でしたが、その方が登場すると、子供はそれを真似ますが、大人は真似ませんでした。

そのサイトでは「障害者に対する無意識の偏見」としていました。

しかし、それは単に大人は子供に気が付かないこと(顔をゆがめる理由)に気が付き、さらに立ち止まって考えることができるということに過ぎないのではないでしょうか。

大人はそれができるので、子供のように無邪気に外見や動作を真似ることができない(それがその人を蔑みあるいは傷つけることにつながると考える)のではないでしょうか。それを偏見という一言で片付けることは無理なのではないでしょうか。

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2024年6月21日 (金)

立ち止まると得られるのが気付き

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日、「服装は敬意の現れ」と書いたところ、「自分は着たいものを着るので、敬意という観点はなかった」という声がありました。しかし、ここに書くのはあくまでも私の一意見に過ぎないですし、仮にそこに真理が含まれることがあっても、あくまでもそれは「一面の」真理に過ぎません。「服装は自己表現である」というのも真理であると思います。

また、これは私が「気付いた」だけで、「今さら何を当たり前のことを」と思われた方もいらっしゃったと思います。例えば、冠婚葬祭の場に参列するときに、誰でも決まり切った礼装をする理由を問うと「みんながそうだから」「そういう慣習だから」「それが礼儀だから」という答えが返ってくると思いますが、さらにそれはなぜかと考えると「他者への敬意を表すため」というのも一つの答えとして出てくると思います。

このように、気付きは、当たり前のことを一度立ち止まって考えてみた結論です。冠婚葬祭に限らず服装は場で決まる→場にふさわしくない服装がなぜ不快か、と考えて得た結論が昨日の気付きです。

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2024年6月20日 (木)

敬意の有無が現れてしまうところ

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日、「見た目問題の直接的当事者はいない」と書きましたが、これは、私の知る限り見た目を理由とした差別や偏見での問題を抱えている人がいないという意味で、軽々に断定すべきことではなかったかも知れません。ただ、中心的話題はそこではなかったことも理解して頂ければ幸いです。

逆にこれを「見た目に悩みを抱えている人」という意味でとらえると、大半の人が当事者だということになるかも知れません。

但し、「見た目」とは顔や肉体の外見という意味ではありません。それも含みますが、服装や身だしなみ、表情や立ち居振る舞い等々も含めた、所謂「非言語コミュニケーション」のことです。中でも服装に関しては昨年「服装は意思表示」という文をここに書きました(6月16日)。

その考えは変わらないのですが、最近気付いたのは、「服装は相手に対する敬意の現れでもある」ということです。

つまり、職場など自分が参加している場にいる人達に対する敬意(どの程度の敬意を抱いているのか)の現れでもあるということです。

あなたの服装はどうですか?

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2024年6月19日 (水)

見た目を気にするということ

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「見た目問題」をご存知ですか。見た目を理由とする差別や偏見などによって生じる問題のことです。「この顔と生きるということ」という書籍には「見た目問題」に苦しんで来た多くの方のインタビューが掲載されています。

その中に、「見た目についてはあきらめている」「あきらめることで楽になれる」と仰っている方がいました。これは、何度も顔の手術を繰り返した結果「普通の顔」(御本人の言葉)にはなれなかった結果の心情なのですが、一方で、「マイナスから始まる人間関係を挽回するために言葉遣いには気をつけ、相手を不快にする発言は慎重に避けるようにしている」とも仰っています。

FLC&Sには現在「見た目問題」の直接の当事者はいません。にもかかわらず、いやだからこそ、自分自身の「見た目」の影響力に無頓着すぎる方が多いのではないかと感じることが少なくありません。

「不通の顔」であるにもかかわらず、人間関係をマイナスから始めようとしている(ように見える)方が少なくないのです。

それって自分のこと?、と思った方、いますか?

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2024年6月18日 (火)

ルールには共感を持ってもらいたいとは思うものの

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「ボディブロー型」(違反の影響がじわじわと続き最終的に大きな問題となる)の接遇ルールの違反に関しては、私自身会話などの中で気づいてもいちいち注意しないことはよくあります。「一発ノックアウト」ではないこともありますし、注意することで話題の矛先がそれてしまうからです。

それともう一つ、そのルールの趣旨を腹落ちして頂くのが先だという考えもあります。それで、研修や朝礼、そして当欄でも、それぞれのルールの根拠や様々なルールに通底する価値観についてお伝えしています(当欄自体は公式な伝達の場ではなく読むかどうかも受け止め方も読者の自由ですが、私自身の試行錯誤も含め、何かを感じていただければ良いと思っています)。

しかし、やはりその都度うるさく注意することは大切なのかもしれません。守らなくてもすぐには大きな問題にならないからと放置していると、個別のルールの目的よりも、むしろルールを守ることそのものについての意識が薄れ、それがさらに重大な問題を引き起こすことになるかもしれません。

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2024年6月17日 (月)

今はプラチナへの道の途上

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

先日の月次朝礼で、働きやすさと働きがいを基準にした4つの企業モデル(「プラチナ」「モーレツ」「ホワイト」「ブラック」)を紹介し、弊社も当然両者を兼ね備えたプラチナをめざすという話をしました。

このうち「働きやすさ」は先週ご紹介した「ルール」による解決、即ち長時間勤務やストレス、ハラスメントなどのマイナスの要素をなくす、つまりゼロレベルにすることが実現につながります。

それに対して「働きがい」は、マイナスのものをゼロに戻すだけでなく、プラスの要素、例えば環境、評価・賃金、コミュニケーション、キャリアビジョン、知識・技術、マネジメント等々を高め、最適化するしくみが必要です。

FLC&Sでは両者を実現するための諸施策を導入して来ました。その効果と皆さんの努力が相まって業績は進展し、企業規模も拡大していますが、まだ成長過程でもあり完全にマイナス部分をなくすに至っていません。

そこで、それをなくすこととプラス面の実現(業容拡大でより高いレベルのものが求められる)の二兎を追うのがプラチナへの道です。

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2024年6月14日 (金)

全てのルールには遵守のしくみが必要であること

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

最初に世の中のルールの存在を知るのは家庭や学校でのしつけや教育を通じてだと思います。それでもルールを知らなかったり、違反したりすることが生じ、その都度再教育、再指導をしたり、場合によっては違反者にペナルティを与えます。

FLC&Sのルールも、始めは原則として新人研修の中で教えられることになりますが、やはりルールの不知や違反が生じます。ルールの中でも特に昨日書いた「一発ノックアウト型」のルール(例えば書類の作成・管理ルール)に関しては一秒も放置できませんから、迅速な再教育、再指導、ペナルティが必要になります。

さらに、「ボディブロー型」のルール(例えば接遇ルール)も、放置すれば最後にはノックアウトされてしまいますから、違反があった場合に再教育、再指導、ペナルティが必要であることに変わりはありません。

また、ルール自体の整備、即ち私自身が当欄で改訂した「教科書」や、口頭で個別に注意されたり、チャットでの周知に止まっているルールを、正式にルール化することが必要となります。

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2024年6月13日 (木)

ルールの3つの特質とは

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

FLC&Sでは「教科書」を始めとして様々なルールが定められています。ポータル掲載の原則「規律と礼儀と自由」でも、規律即ちルールの重要性が示されています。

「ルールのルール」は最近の価値研修でご説明していますしここでも書きましたが、今日はルールの3つの特質についてお話しします。

1 消極性
ルールとは、守るべき最低レベル、謂わば目盛のゼロを定め、そこからマイナスに陥らせないように制御するという後ろ向きなものである。

2 相対性
その「ゼロ地点」は社会や組織が何に価値をおくかによって決まるものである。
弊社と他社ではゼロのレベルが当然異なり、比較して厳しい、または緩いと感じても「これが我が社のルール」との自負を持って欲しいです。

3 効果による2類型
ゼロレベルを一度でも下回れば一発でノックアウトされ得るものと、それはないがゼロレベルを下回ることが続くとボディブローのように徐々に効いてきて最後にノックアウトされてしまうものとの2種類がある。
前者の例が書類作成・管理ルール、後者の例が接遇ルールです。

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2024年6月12日 (水)

第三者に移転する可能性は言わなくて良いのか

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

買主側から、「新・中間省略登記を行うことを売主に言わないで欲しい」と言われて困った経験はありませんか?

この方は新・中間省略登記と転売モデル(クッションモデル®)とを同じものだと思っています。つまり「転売することを言わないで」と言っている訳です。

しかし、クッションモデル(A→B→C)は不動産売買契約の態様(AB間の売買契約とBC間の売買契約が連続する)のこと、新・中間省略登記は所有権の移転経路(A→C)のことで、両者は別の概念です。

クッションモデルでも必ずしも新・中間省略登記を行う訳ではありません。実需(買主Cが住む)の買取再販では行わないことが大半です。

そして、売主(A)に対して、Bが転売することを告げないだけであれば、法的にも問題はありません。転売の有無は通常は売買契約の内容ではないからです。

しかし、新・中間省略登記は売買契約の内容であり(特約)、Aがそれを認識することは必須です。

転売すると言わないまでも、第三者に移転する可能性を伝えない訳には行かないのです。

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2024年6月11日 (火)

私達はTeslaかSpaceXか

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

先日、登記分野のイノベーションはスタートアップが担うのかという話をしました。スタートアップと似た概念にベンチャー(企業)がありますが、私達FLC&Sもどちらかに該当するのでしょうか。

スタートアップとベンチャーはいずれもイノベーションによって成長する点で共通しています。その意味では私達FLC&Sも、新・中間省略登記というイノベーションを起点に様々なイノベーションを重ねて成長して来たという意味で、どちらかに該当すると思います。

両者の最大の違いは、新しい市場を創り出すか否かです。あるサイトでは、民間宇宙輸送という市場を創り出したSpaceXをスタートアップの、自動車という既存市場で成長したTeslaをベンチャーの例として挙げています。

この基準によれば私達は登記という既存市場で成長してきましたからベンチャーだということになります。

そして今後もイノベーションを重ね同じ市場で成長して行く使命ですが、新しい市場を創るスタートアップとなる(生み出す)余地も大いにあり得ると考えています。

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2024年6月10日 (月)

自分が不合理な発信をする可能性を知る

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

先週は、不合理な要素を含む助言や指示を「素直」に受け入れることについて書きましたが、問題は不合理な発信がされることそのものより、それが修正されないことです。

発信者は自分の助言や命令に不合理な点はないと考えています。相手側が素直に従えばなおさらそう思います。しかし、そのことと不合理性がないこととは別の話です。

そもそも自分の発信の合理性を自分で疑うというのは難しいですし、合理性自体相対的なもので、相手との関係で変わって来ます。ですから、その点に関しては相手と率直に意見交換できる環境を整えておくことが必要です。

あるいは発信の合理性を担保できるしくみを作ることも有効です。教育や訓練です。例えばコーチングやフィードバックなどの人材開発手法を導入する場合は、予め教科書や研修などで方法を学びます。それによってある程度発信の合理性が担保されます。

助言や業務上の指示にも、本来そういったものが必要です。「FLC&Sの教科書」や「価値研修」がその基本を身につける一助になればと思っています。

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2024年6月 7日 (金)

業務命令に疑問を感じたらどうする?

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

不合理な助言を無批判に受け入れる必要はありませんが、好意からのものを無下にも出来ないということはあります。ではこれが助言でなく上司からの業務命令だったとしたらどうでしょうか。

業務命令にはもちろん従わなければなりません。広い意味でルールですから「ルールのルール」第1項を見るまでもありません。

しかし、無批判に従えということではありません。ルールも合理性がない(なくなった)場合にはそれを是正する行動を起こさなければなりません(同第4項)。

あるルールや業務命令の必要性や合理性(組織の理念に従い公正・公平なこと)に疑問を感じた場合には、まず指示者や命令発信者にその疑問をぶつけてみます。

指示者・発信者にとっては当たり前だと思っていたり、ルーチンになっていることもありますから、自分の指示や命令の合理性について考える良い機会だと捉えてみます。

意見の共通点、相違点を知ることは、相互の理解を深めるためにも有益だと考えてみます。

それでも埋まらない溝がある時は第三者を巻き込むことも有効です。

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2024年6月 6日 (木)

素直さと能動的思考との関係は

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

不適切な助言を素直に聞くと失敗することがある、というのは、「能動的思考」の考え方からは当たり前かもしれません。

では、「素直さ」も「能動的思考」も大事だというのはどういうことでしょうか。ここで「素直さ」と「能動的思考」の関係について考えてみましょう。

両者を比較するには、同じカテゴリーに落とし込む必要があります。「素直さ」をマインドセットないし行動習慣に落とし込むと、「人の助言を素直に聞く」習慣ということになります。

そこで問題になるのが「聞く」とはどういう意味なのかです。これを、「無批判に受け入れて従う」と捉えると、正しく「能動的思考」とは対極的なものです。

しかし、これを「真っ向から拒絶せず耳を傾ける」と捉えると、必ずしも「能動的思考」とは矛盾しません。

つまり「素直さが大事」とは、人の助言に素直に耳を傾けることは大事だということであり、それを無批判に受け入れろということではないのです。

人の助言に少しでも疑問をもったらどうするか、は価値研修の「能動的思考」を参照してください。

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2024年6月 5日 (水)

素直さがかえって失敗をもたらす?

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

以前、「素直さ」、即ち人の助言を素直に聞き入れることは大切であると書きました(4月9日~11日)。

私が「素直さは重要」と思ったのは、他人のアドバイスを素直に聞かないために失敗した方達を少なからず見て来たからですが、ふと、逆にアドバイスの方が不適切だからとても素直には聞けない、ということもあるのではないか、ということに思い至りました。

つまり、人はどうしても「理想」を思い描きがちです。誰しも自分が理想とする人物像や理想的な仕事の進め方というものを持っています。そこで、他人にもそれを押し付けてしまうということが起こります。

しかし、人はそれぞれ多様な個性や適性を持っています。それを無視して自分の理想を押し付けようとすると、そこに無理が生じます。「素直に」言うことを聞けないということになってしまうのです。不適切なアドバイスを、素直さ故に受け入れてしまって失敗するということも、起こり得るのではないでしょうか。

前に取り上げた、素直さのないアスリートはそういう経験があるのかも知れません。

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2024年6月 4日 (火)

モチベーション阻害の外的要因

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日、モチベーションを阻害する「個人的な」要因の例をいくつか挙げました。「個人的」とは、主な原因が各個人の内部に存在し、個人的な行動や思考の変容でそれを排除できるという意味です。「内的要因」と呼んだほうが良いかも知れません。

一方、阻害要因が個人の外部にあり、個人の行動や思考の変容で排除することが困難なもの(外的要因)の例としては、不公平な評価制度、不透明なキャリアパス、劣悪なワークライフバランス、低水準な給与や待遇、等があります。

また、内的要因として挙げた「職場の雰囲気」は外的要因として捉えることもできます。このように、内的要因か外的要因かは明確な境界がある訳ではなく、相対的なものです。

他にも例えば「やらされ感」や「成長の機会がない」は内的要因として挙げましたが、外的要因としての性格も併せ持つものです。

もちろん、外的要因に関しては弊社としても手を拱いているわけではなく、新・評価制度の導入や組織改革、ワークライフバランス改善のための諸施策導入等、さまざまな手段を講じています。

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2024年6月 3日 (月)

理念でモチベーションが上がるのか

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

先日、〈部の、課の、そして自分の「理念」を書く〉という話をしました(30日)。これは自分が企業理念を書くに至った経緯から出て来た考えなのですが、調べると「部門理念」「チーム理念」「部署理念」「個人ビジョン」という言い方で、同様の施策が少なからず推奨されていることがわかりました。

目的は企業理念の具体化等様々ですが、一つはメンバーのモチベーションを上げるところにあります。

モチベーションが上がらない要因には様々なものがあります。個人的なものとして一般的に言われているのは「仕事の意義や目的が不明確、コミュニケーションの不足、職場の雰囲気が悪い、成長の機会がない、やらされ感=非主体的姿勢」等々です。

部や課の理念を作ることは、そのまま「仕事の意義や目的」を明確にすることであり、「成長の機会」を見出すことでもあります。また、自らこれを考えることは主体的姿勢そのものですし、他のメンバーとともに行うことは、「コミユニケーション」を活性化し、「職場の雰囲気」を改善することにつながるのです。

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