« 2024年1月 | トップページ | 2024年3月 »

2024年2月29日 (木)

多様性を尊重するのに価値観は共有するという矛盾?

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

会社の理念や価値観が個々人のそれらと一致しないことは誰でもあると思います。

人に特定の価値観を持つように強制することはできませんが、企業では大きな方向性(存在意義)に関わるところでは価値観を共有する必要があります。

例えば司法書士の職責について。私は危険の潜む仕事には立ち向って行かなければならないと考えていますが、司法書士は登記をすれば良いだけだから危険な仕事は避けるべきであるという考えの方もいます。

あるいは営業について。私は司法書士も積極的に営業活動をすべきだと考えていますが、司法書士は「社会的存在」だから、営業活動はすべきではないという考えの方もいます。

これらはFLC&Sの事業の根幹に関わるところですから、価値観を共有して頂かなければなりません。

企業における価値観の「共有」とは、お互いの価値観を理解し、尊重した上で、どちらを優先させるかを決めることです。

ただ、価値観は変化することがあって然るべきものです。それを成長と言っても良いのではないか、と思います。

| | | コメント (0)

2024年2月28日 (水)

理念や価値は抽象的で、それでメシは食えないし、他と違うのはどうかと思っている方へ

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

確かにその通りなのですが、FLC&Sが曲がりなりにもここまで来られた理由を突き詰めて考えて行くと、理念や価値にたどり着かざるを得ないのです。そして、今を維持するだけでなく、さらにこれからもっと良くなっていくためにも、それなしで正しい判断(戦略や戦術の決定)をすることはできないと感じています。
 
また、これらは抽象的、概念的なものですが、これらを形づくって来たのは日頃の業務からの気づきです(帰納的発想が私の思考パターンのようですので、その欠陥を演繹的な発想で補う必要はあります)。

ただ、これは漫然と業務をしていた中で形成されて来たものではなく(昨日もお話しした)「能動的思考」の中から生み出されたものであり、他と違うものが多いのもその当然の帰結なのです。

だからこそ私はFLC&Sのメンバーに理念や価値を大切にして欲しいですし、それを実現するための「マインドセット」を備えて欲しいと考えており、「価値研修」やこの場でお伝えしているのです。

| | | コメント (0)

2024年2月27日 (火)

法的思考というマインドセットに真に求めるものを考えることで変わること

(今朝のFLC&S社内ブログ「ニュース共有」より)

フクダリーガル(FLC&S)のメンバーに私が期待する「マインドセット」の一つに「法的思考」があります。これは新人向けの「価値研修」でも最も力を入れて説明しているマインドセットの一つです。

これまでFLC&Sの「法的思考」の定義は「決まり事や命令の正当性や合理性、効率性を疑い、根拠を考えること」としてきました。

しかし、この定義では、このマインドセットが「認知バイアス」を回避したり「思考停止」から脱出するための力を与えられないということに、最近になってようやく気がつきました。

そこで定義を次のように変えることにしました。

「様々な情報や規範に接した時に、思考を停止させず、その真偽や正当性、合理性、効率性を疑い、根拠を考え、先入観に囚われないこと」(!)

こうなると「法的思考」という呼び方も、ますます一般的な意味(法規に基づく論理的な思考や分析)から離れてしまいますので、改めることにしました。

このマインドセットを「能動的思考」と呼ぶことにしました。

| | | コメント (0)

2024年2月26日 (月)

誰にでも起こる思考停止。そこから脱出するために必要なこと

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

私はたまに自分が「思考停止してたな」と思うことがありますが、これは私だけではないでしょう。

つまり、思考を停止させることは生活を効率化するために人類が身に付けた習性であり誰にとっても自然なことだということです。

ただ、例えば情報の真偽を確かめることなく受け入れ、拡散するのも思考停止ですが、それによって人や組織が不幸になることがあることは皆さんよくご存知の通りです。

そうなる原因を取り除くためには自分の力で思考停止から脱出する(情報の真偽を確認する、自分の頭で考える)訓練をすることが必要ですが、まず自分が思考停止状態にあることに気づくことが大前提です。

しかし思考停止は人間の性(さが)ですから、冒頭の私がそうであったように、なかなか気づけないことも多いのです。

そこで有効なのが、誰かに気づかせてもらうことです。他人の思考停止状態は自分のそれより気づきやすいからです。

そして、それを仕組にすることが、幸せな組織を作るための私達の課題でもあると言って良いと思います。

| | | コメント (0)

2024年2月22日 (木)

「人がみな対等なら、言葉遣いもタメ口でいいじゃん」は一面の真理か?

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

人と人は対等なのですから、お互いの敬称の付け方も偏頗(一方が「さん」で他方が「くん」等)のないようにすべきです。

では、言葉遣いも偏頗のない、いわゆる「タメ口」にすべきなのでしょうか?

私は、対等な関係(タメ)ですから、当然言葉遣いもタメ口で良いと思います。

ただ、敬称同様(2月14日の本欄で機能について書きました)、言葉遣いにも「礼儀の表出」という機能があります。

その用い方によって礼儀にかなったり逆であったりします。

つまり、敬称・言葉遣いいずれに関しても、距離感(親しさ)や場に応じた礼儀への配慮は必要です。

さほど親しくもない関係の方に対して馴れ馴れしい言葉遣いをするのは失礼です。これは対等とは無関係です。

逆に親しい間柄で(しかも内輪の場で)目上の方に対してタメ口をきいても失礼ではないと思いますし、当人同士もそこに違和感を感じていないのであれば目くじらをたてることでもないと思います。

そう考えると敬称も親しい間柄で内輪なら偏頗があっても問題ない?

| | | コメント (0)

2024年2月21日 (水)

「〇〇先生」と呼ぶのも呼ばれるのもあまり嬉しく感じないことについて

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

司法書士は人から「〇〇先生」と呼ばれることが多いですが、私の場合そう呼ばれても素直に喜ぶことはできません。自分がそう呼ばれるに値する人物であるとはとても思えませんので、かえって居心地が悪くなります。

また、相手が司法書士だからというだけで「〇〇先生」と呼ぶとすると、それは儀礼的な意味合いで、心にも無い敬意を示すようでこの場合も居心地が悪くなります。

使う相手にもよるかもしれませんが、少なくとも同業者や顧客との間では、そのようにしか感じません。

そして、「士業」に対しては「先生」と呼んでおだてる慣習(?)がいつから、なぜ始まったのかは分かりませんが、そのこと自体が世間の「思考停止」を象徴しているようであまり面白いものではないと日頃から感じています。

そこで私は同業者には「(お互い)先生呼ばわりはやめませんか」と、また同業者以外の場合は「私も○○社長と呼ばなければならないので先生はやめて頂けませんか」と、先生呼ばわりをお断りすることがよくあります。

| | | コメント (0)

2024年2月20日 (火)

「これを読むと何か良いことがあるの?」に一言

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

私がここで書く内容は、日常の気付きから企業理念に至るまで雑多で幅広いものですが、当然私の考え方、価値感に基づいています(これを書くきっかけも私が何を考えているのか知りたいという社員の方の声でした)。

それはフクダリーガル(FLC&S)を作り育てる中で培われた考え方であり、方向性もここから大きく逸脱することはないと思います。

おそらくはみなさんの価値観と一致しないもの、理解不能と思われるもの、考えが未熟に思えるもの、興味のない話、等もあるでしょう。

しかし、時間の許す限りで現在の私の知恵を最大限に絞り出し、恥ずかしくない程度の文章にはしているつもりです。

もちろん、そもそもこれは業務上の文書ではありませんから読むかどうかは自由です。

ただ、もし読んで頂けるときは、この駄文に限らず、どんな価値観や理念でも(賛同できるものでも)多面性を持つものの一面に過ぎないこと、他の面も考えてみる必要があることを頭において読んで頂きたいと思います。

「リアクション」やコメントも大歓迎です。

| | | コメント (0)

2024年2月19日 (月)

改善の余裕がなくても声を上げる必要はある理由を役割の意味から考えてみる

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

作業の改善について思考停止しているのではなく、その余裕がないのだという声があります。

仮にそういった事実があるとしても、その事実を当然として問題を感じないとすれば、そのことこそ思考停止です。

ところで企業では一人ひとりが何らかの役割を担っています。作業も一つの役割であり、その作業を改善する(必要があるか考える)こともひとつの役割です。では、それらの役割を担うのは誰でしょうか?

役割は、誰がその仕事に「最適か」で決めるのが原則です。「最適」とは、あることについて最も高い成果を上げられる、またはある方にしかそのことを行えないということです。

他の方でも同様の成果を上げられる(行える)なら、その方はより高い成果を目指す必要があり、ときに役割の変更となり、場合によってその方にしかできない役割になるかもしれません。

いずれにしても、改善(を考えること)の余裕がないならそれを問題として声だけでも上げることは、その作業を行っている方の役割に他ならないのです。

| | | コメント (0)

2024年2月16日 (金)

「今が最高」はあり得ない

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

習慣的に行ってきたことを急に「変えさせられる」とは、自分の意思ではないところで変えることを強制されるということで、それに抵抗を感じるのは当然です。しかし、逆に、習慣になっている行動(思考)を変えようと自分の意思で試みることもあまりないのではないでしょうか。

つまり習慣を変えるのはなかなかに難しいということです。

これは仕事でも同じで、なぜその作業をするのか、なぜそういう方法でするのかを考えた時に、特に理由(を考えたこと)はない、とか、ずっとやっているから、とか、それが普通だから、とか、みんながやっているから、という答えしか思い浮かばないとすると、(だからこそ?)それを変えようという動機は働かないことになります。

しかし、およそ仕事のやり方に変える必要のないものは存在しないと私は思います。今のやり方が最善、最高だなどということはあり得ないのです。

もし、いま自分がやっている作業(の方法)に改善の余地がないと考えているとすると、それは「思考停止」でしかありません。

抵抗があるのは当然ですが。

| | | コメント (0)

2024年2月15日 (木)

急に変えないで

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「○○くん」と呼ばれていた人から「○○さん」と呼ばれるようになったときに感じる違和感は、距離感だけではありません。

例えばこんな話。
ある方が子供のころご両親をパパ、ママと呼んでいたのですが、ある日小学校の担任教師がクラス全員に「親を何と呼んでいるか」と聞いたそうです。大昔の田舎のことでパパ、ママはその方一人だったそうです!

級友からは「パパ、ママだって」と笑われるので、その方はその日から「お父さん、お母さん」に改めることにし、両親にも宣言したそうです。

それで困ったのは弟です。彼もパパ、ママと呼んでいたのですが、兄がお父さん、お母さんと呼び始めたため、自分もそうしなければと思ったようです。しかし、パパママをすぐにお父さんお母さんに変えることができず、しばらくはなんとも呼べなくなってしまったそうです。

これは単に、習慣的に行ってきたことを急に「変えさせられる」ことには抵抗を感じる、という一般的な問題であり、弟が親を再び呼べるようにするにはどうしたら良いか、という課題を与えてくれる良い事例だと思います。

| | | コメント (0)

2024年2月14日 (水)

対等を守る文化

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

敬称は、「敬意をこめて言う言い方や名前の下につける言葉」ですが、真に相手を敬う気持ちから用いられることは殆どなく、大半の場合その果たす機能は、①礼儀の表出、②権力格差や差別への作用③距離感の作出です。

②で「作用」としたのは、敬称は権力格差の受容の指標でありそれを是正する機能がありますが、逆にそれを助長してしまう側面もあるからです。

権力格差の受容とは、「人は対等ではなく上下や優劣がある」という考え方を容認することです。

組織や社会にそういう考え(文化)がある場合に(日本も弊社もまだまだそうだと思います)、一方が他方を「○○さん」と呼び、相手が「○○クン」と呼ぶことをその組織や社会が当然として放置すると、その文化を助長することになってしまいます。

ところで対等とは、お互いに尊敬し合える関係であり、相互に学ぶべき点、優れた点があることを認め合う関係です。

人と人との関係で、一方だけが他方よりも全ての面で優れていて、他方から学ぶことはないという関係はありません。あらゆる人と人とが対等なのは自然なことです。

| | | コメント (0)

2024年2月13日 (火)

敬称が気になる

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

かつて私は所謂「目下」(部下、後輩、年少者)の方に対しては無頓着に「〇〇くん」と呼んでいました(場合によっては呼び捨て)。

しかし、マナーやホスピタリティのあり方をより深く考えるようになると、まず他人の、次いで自分の敬称の使い方が気になるようになりました。

遅まきながら「この人に対して『〇〇くん』と呼ぶのは礼儀として如何なものか」と考えることができるようになったわけです。

さらに人から、「✕✕さんから『◯◯くん』と呼ばれるのは違和感がある」と相談されることがあるなど、礼儀としての敬称の持つ意義を考える機会が増えました。

さらに、イノベーション実現のために多様性が重要であることや、その阻害要素としての権力格差や差別を意識するようになると、敬称を権力格差意識や差別意識の象徴としても捉えるようになりました(この点は先日書いた通りです)。

こうして敬称の機能(①礼を尽くす、②権力格差や差別の是正=人と人とは対等であることの浸透)を見出し、さらに③距離感の作出という機能を必然的に伴うことにも気がついた訳です。

| | | コメント (0)

2024年2月 9日 (金)

「さん」で距離感が広がる理由

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

普通に考えると、対等になると距離感が縮まるように思えますが、なぜ、クンをさんにすると距離感が広がるのでしょうか。

それは、権力格差を受け入れているからです。

ほとんどの人は日本の権力格差文化にどっぷりつかって来ており、それを受容している人が多いと思います。

権力格差(例えば年少者よりも年長者が偉い、優れている)を受け入れている度合の高い人が年長者から「○○クン」と呼ばれても、抵抗感を感じることは少ないでしょう。

それを受け入れる度合の低い人は、年長であるだけで「○○クン」と呼ばれると、抵抗感を感じることが多いはずです。

そして、それぞれが呼び方をクンからさんに変えた場合、前者は距離を置かれたと感じ、後者は対等(正当)に扱われたと感じると思います。

ただ、敬称は相手に対する敬意の表現ですから、相手に敬意を抱いているか否かも、権力格差の受容度合の高低に関わらず、敬称をどう受け止めるかに影響してくると思います。

つまり、親しくもなく尊敬できない人からクン付で呼ばれると腹が立つ、ということです。

| | | コメント (0)

2024年2月 8日 (木)

対等とは距離を置くことか

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

一昨日の月次朝礼では、「対等」という価値や、それについて自分がどの程度の認識なのか、すなわち(企業)文化としての「権力格差」をどの程度受容しているかを測る指標の一つとして敬称の使い方(クン、さん)があるという話をしました。

その後Kさんの「自分もクンづけしていたのを今後はさんづけに」という発言もあったことから、次の質問が寄せられました。

「それまで○○クンと呼んでいたのを○○さんと呼ぶと、呼ばれた側は距離を置かれたように感じるのではないか」

実はこの質問が出ることは予想(期待)していました。

以前、私が「こうだ」と決めつけるのは「隠喩」だと言いました(昨年12月11日「強いリーダーはいらない」)。見方を変えると「一面の真理」でしかありません。

ですから、私の意見には反対意見があって然るべきです。

今回の質問はまさしく「一面の真理」のウラを突く鋭い質問であり、「もう一面の真理」だと思います。

敬称(名前の呼び方)と距離感は密接に関係していますが、様々な観点から考えることができる面白い問題です。

| | | コメント (0)

2024年2月 7日 (水)

自分のことに気づけない

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「傾聴」ができていない方は多いということを、昨日の月次朝礼でもお話しましたが、早速私自身がそれを証明してしまいました。

一昨日(雪が降った日です)、昼食をとりに6階のラウンジに行こうと8階執務室を出ようとしたときのことです。入口ですれ違ったある社員の方が、私が大きなトートバッグを下げているのを見て、外出すると思ったのでしょう、その割に軽装であったため、「雪が降っていますが大丈夫ですか?」と声をかけてくださいました。

それに対して私は、「この格好を見れば外に行かないことは分かるだろう」という「突っ込み」が先に浮かんできてしまい、それをその方に言ってしまいました。

普段あまり声をかけて下さることがない方が心配して声をかけてくださったのですから、感謝こそすれ、突っ込みを入れるような場面ではないのですが、私にはそれができませんでした。

お恥ずかしいですが、これは、相手の発言の合理性を受け取るという「傾聴」(と受容)ができていない(発言内容を否定する)ことに他なりません。

Nさん、大変失礼致しました。

| | | コメント (0)

2024年2月 6日 (火)

対等思考の先達

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「対等」という価値は、「権力格差」で見た上下関係だけでなく、男性と女性の関係でも同様に意味を持ちます。男女が対等であることは現代社会では当然の大前提ですが、現実にはまだまだ対等に扱われていないのはご承知の通りで、さらに単純な性別ではなく、「ジェンダー」という概念で課題化されています。

自分には男女差別の意識なんてないよという方も、無意識に男女差別を行っていることは少なくありません。例えば男性に対してだけ「クン」づけで呼ぶ(女性は「さん」)などもそうです。

さて、世の中に「対等」という価値観が浸透していないからこそ、これを強調しなければならないわけですが、100年以上前にこのことを主張していた方がいます。

書籍「嫌われる勇気」をきっかけに日本でも広く知られるようになった心理学の泰斗アルフレッド・アドラーです。

アドラーは「あらゆる対人関係は『縦』ではなく『横』の関係にあり、人と人とは対等である」「一緒に仲良く暮らしたいのであれば、互いを対等の人格として扱わなければならない」と主張していました(※)。

 

NHKTV「100分de名著 げすとこらむ」

| | | コメント (0)

2024年2月 5日 (月)

権力格差 その4

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

これまで見てきたように、日常の言葉遣いの端々にその方のものの考え方や姿勢が現れます。敬称の付け方や挨拶の仕方が権力格差の受容度合いやホスピタリティマインドを端的に表しています。それは案外自分でも意識していないことであったりします(問題意識がないからこそ言葉遣いに無頓着なわけですが)。

無意識の言葉遣いでもそれを修正することに対する抵抗感が強ければ、言葉が象徴している「思想」が強く身に付いている(染み付いている)と言えます。

ところで権力格差の存在する「上下関係」は、学校や家庭や職場だけに存在するものではありません。所謂「お客さま」との間(サービスや商品を売る側と買う側、お金を払う側と受け取る側)の関係にも存在します(昨年11月21日の本欄「お客様は神様じゃない」)。

顧客との権力格差の受容の程度も言葉遣いに現れます。例えば来客に対して「こんにちは」と挨拶することに抵抗があるかどうか、逆に自分が客の立場のときにお店の方に「こんにちは」と言われることに抵抗を感じる(不快に思う)かどうか、などです。

| | | コメント (0)

2024年2月 2日 (金)

権力格差 その3

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「権力格差」を受け入れてしまっているとは、例えばこういうことです。
・上司だから先輩社員だから年上だからというだけで無条件に持ち上げ、へりくだり、遠慮する。
・部下だから後輩社員だから年下だからというだけで無条件に軽んじる、無遠慮である、横着にふるまう。

いや自分はそんな態度はとらないという方でもこんなことをしているかもしれません。
・上司・先輩・年長者に対する誤りの指摘を遠慮する。控えめな態度をとる。日中社内で会ったときに「お疲れさまです」と言ってしまう(「こんにちは」と言えない)。
・部下や後輩や年少者を「誰々クン」と呼ぶ。敬語を使わない。ぞんざいな言葉遣いをする。

こういう言動をする方は権力格差を受け入れてしまっている可能性が高いと思います。

こういった方達には「対等思考」を身につけて欲しいですし、それを日頃から実践して欲しいと思います。

そのための手っ取り早い方法がこれです(形から入る)。
・部下、後輩、年少者を「さん」づけで呼ぶ。
・上司や先輩や年上の方に対する挨拶は(日中は)「こんにちは」と言う。

| | | コメント (0)

2024年2月 1日 (木)

権力格差 その2

(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「国民文化の6次元モデル」は、各国の指数に応じてどのように対処するかを示すものです。権力格差の次元で日本は諸外国と比較して中位です(※)。

しかし私が言いたいのはこのスコアを前提にそれにどう対処するのか、ではなく、これをさらに小さいものにする必要があるということです。少なくとも私達の職場でイノベーションを進めるためにはそのことが必須と考えています。

私はこれまで「上司や部下などの上下関係は存在するが、それはあくまでも役割に過ぎず、人間としては対等である」と言ってきましたが、権力格差が日本より小さい国(米国、英国、ドイツ、北欧諸国、イスラエルなど)では、同様な考え方をします。

「上下の関係は存在しますが、それは目的を果たすために必要な、便宜的なもの。上司や教師、親など、年齢や社会的ランクが上だからといって、人間的に優れていなければならないとは考えません」(※)。

みなさんにも是非この考え方を理解し実践して欲しいと思います。

まず、自分が権力格差を受け入れてしまっていることに気づくことからです。

つづく

https://hofstede.jp/6dimentionsmodel_pdi/

| | | コメント (0)

« 2024年1月 | トップページ | 2024年3月 »