無駄の必用性
(今朝のFLC&S社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)
10月9日に共有したニュースに「無駄」について書かれたものがありました。オスのクジャクの美しい羽や、鳥たちがさえずる歌や求愛ダンス、オスのシカの角などは、種の繁栄にとっては無駄な機能なのだそうです。
以前この欄ではアートについて少し書きました。また、以前の月次朝礼(今は動画配信をしていますたコロナ前は旧ラウンジで対面で行っていました)では、よく仕事とは全く関係のない話をしました。私が休日に見つけた珍しいものの話(バラの花の形をしたピンクのオムライスとか!)などです。
こういう話は、仕事との関係からすると全く「無駄」な話に見えます。昔の朝礼は受講後にレポート(感想)を提出して貰っていたのですが、その感想の中にそんな私の「余談」について、「全く意味不明」と書いて来た方がいらっしゃいました。正しく考えようによっては無駄な話で、貴重な朝礼の時間を使ってするような話ではないかもしれません。
アートは、増床に伴い増やすことにしました。観葉植物も同様に増やします。また、新ラウンジの廊下側の壁は緑化壁ですし(フェイクですが)、床は芝生です(人口芝ですが)。
こういったものは仕事に直接役には立たない、ある意味無駄なものにも思えます。しかし私にはこれが全く無駄なものだとは思えないのです。
アートや観葉植物がなぜ無駄ではないと思えるのか、そのうまい説明はまだできていません(一つだけ思いついたことがありますが、それはまた別の機会に)が、前述のクジャクの羽などは、観点を変えれば無駄ではなく、意義のあるものなのだそうです(※)。
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