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2022年4月17日 (日)

人は対等

(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

敬語に関して私が特に最近気になる場面には2種類あります。一つは使われている敬語そのものが気になる場合。もう一つはそもそも敬語(中でも特に丁寧語)を使わないことが気になる場合。
昨日は前者についてお話ししました(所謂「バイト敬語」)ので、今日は後者についてお話しします(昨日は「よかれと思う気持ちがない場合」という言い方をしています)。

丁寧語を使わないことが「気になる」というのは、「そこは丁寧語を使うべき場面だろう」と考える、ということなのですが、丁寧語を使うべき場面であるかどうかの基準の問題となると難しい話になってしまいそうですので、具体的に私がどんなことが気になるのかをお話します。

それは、(主に職場内で)年齢や役職(職場での地位)が自分より「下」だというだけで(場合によっては初対面であるにもかかわらず)丁寧語を使わず相手を下に置いたような言葉遣いをし、敬称も「さん」でなく「クン」づけで呼ぶ、などです(その時も女性に対してだけは「さん」づけで呼びます。これはこれで敬語とはまた別の問題を孕んでいるように思えますが、それはまた別の機会に)。
こういう言葉遣いはむしろ当たり前で、なんの問題も感じていない方が大半でしょう(気にする必要もないのかも知れません)。私自身もそうでしたから、(人に対してそれを指摘することはせず)まず自分から変えたいと思い、実践をはじめました。例えば特に会議など公(第三者を交えた)の場で、部下や、若い方に対する場合でも、できる限り丁寧語を使うようにし、敬称も「さん」とするように心がけはじめました。

私がこのように自分の言葉遣いを変えようと思っているのは、人と人との関係について、あることに気がついたからです。
それは、「人と人との関係は本来、年齢や、地位、肩書きに関係なく、対等である。対等な者同士は、お互いに相手を認め合い敬い合う気持ちを持つことが必要である。」ということです(吉川英治が「我以外皆我が師」と言っていたのを今思い出しましたが、これとはまた少し違う議論です)。

これに関連して、フクダリーガルの「挨拶」に関するルールも、実は根底には同じ考え方があることに気が付いたのです。

それについてはまた明日。

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