「挨拶」を疑う
(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)
フクダリーガルの「挨拶」に関するルール(「フクダリーガルの教科書」搭載)には、その根底に私自身の最近のこんな考え方があることに気が付きました。
「人と人との関係は、基本的に年齢や、地位、肩書きにとらわれることなく、対等と考えるべきである。お互いに相手を敬う気持ちは必要であるが、それは上下の関係から生まれるものではなく、むしろ対等な関係から生まれるものである」
「フクダリーガルの教科書」には、挨拶は「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」を基本的なものとしてあげています(その他場面に応じた例として「行ってきます」や「行ってらっしゃい」など)。
そして、強調しているのが、「お疲れさま(です)」は「労いの言葉」(例えば一日の仕事が終わった人にかける言葉)であり、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」を使う場面で使う言葉ではないとしている点です。
つまり「お疲れさま」は「挨拶」の言葉ではないので「挨拶」につかってはいけないということです。
私は当初、挨拶の言葉でないものを挨拶に使わないのは当たり前のことだという考えからこの決まりごとを作ったのですが、これを推し進めていく中で色々面白いことに気がつきました。
例えば、この決まりごとに初めて接した人達から、「私は何年もお疲れさまですという挨拶をしてきたので、それを使うなというルールには違和感がある」、とか、「お疲れさまはみんな挨拶としてつかってますよ」、とか、「普通使うんじゃないですか」、という声が聞こえて来ました。
こういう意見を言う方達に対して私が聞きたいのは、長年使ってきたからとか、みんな(とは誰のことかわかりませんが)が使っているからとか、普通(これもなんだかわかりませんが)使うから、ということ以外にそれを使う積極的な根拠があるのですか?ということです。
これらが物事を決める根拠としては極めて薄弱で説得力に欠けるということはみなさんにわかって頂けると思います。
こういう根拠付けは挨拶に限らず、決まりごとや法律や指示や命令に接したときに、それらを疑わずに盲従する態度・習慣につながるもので、気をつけなければいけないことだと思います(常々お話していることですが)。
そしてもう一つ気がついた面白いことは、また明日。
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