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2022年4月30日 (土)

司法書士の職責

(本日のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

あなたが事故発生の可能性が高いと判断しているときに、依頼者から「司法書士を代える」(他の司法書士に依頼する)と言われたら、どうしますか?

ここで依頼者が「司法書士を代える」意図は、このままフクダリーガルに登記を担当させておくと、うるさいことを言われて登記が遅れるし、最終的には取引を中止せざるを得なくなる可能性が高いから、うるさいことを言わないで言った通りに登記してくれる司法書士に頼んでさっさと登記(取引)を終わらせる、というところにあります。

「言った通りに登記」するのは司法書士が受けた依頼の本旨ですから、(うるさいことを言わずに)言われたとおりに登記をすれば依頼の本旨を果たしたことになります。もし仮にその後、隠れていた危険を原因として問題が生じたとしても司法書士がそれに対する責任を負うことがないのが原則です。

それで良いのでしょうか?

これは司法書士の職責をどう考えるのかの問題です。
つまり、単に当事者に言われたことを、そのとおりに登記することだけが司法書士の職責であるという考えに立つなら、当事者から「あなたには頼まない」と言われれば「わかりました」と従うことになるでしょう。

しかし、司法書士の職責は言われたことをするだけではなく、取引そのものを安全に成立させるところにあるという考えに立つなら、「あなたには頼まない」と言われてもそう簡単に引き下がるわけには行かないでしょう(※)

ではどうするのか。

後者の考え方に立つフクダリーガルなら、こう答えます。
「司法書士を代えてもなんの問題解決にもなりません。他の司法書士に依頼したとしてもこの取引の危険性がなくなるわけではありません。その司法書士が、言われたことだけをやれば良いという考えの司法書士であるならともかく、そうでないなら、私達と同じことを言うでしょう」

しかし残念ながら、それでも「司法書士を代え」られてしまうことはあります。それによって問題が起きたことも(仄聞した限りですが)あります・・・。

続く。

※この立ち位置は、4月13日の本欄でご紹介した東京高裁平成27年 4月28日判決の考え方に似ている様に思えますが、大きな違いがあります。同判決は、「登記申請意思の真実性に疑念を抱かせるに足りる客観的な状況がある場合には」(調査をし、場合によっては依頼業務の遂行を差し控えるべし)と言っていますが、この立ち位置は、「客観的な状況がある」とまで言えない段階でも調査をすべき(調査を進言すべき)であるというものです。

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2022年4月29日 (金)

司法書士を「代える」

(本日のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

登記申請の依頼者(売買当事者ー多くは買主、または融資をする金融機関)に対して、懸念要素のある取引に関しての調査を提案したところ、了解を得られず、逆に「司法書士を代える」と言われたらどうすれば良いでしょうか。

司法書士は人形や置物ではないのですから、簡単に「代える」と言われても困るのですが、法的な観点からはそんなに無茶な話でもないのです。
依頼者が司法書士に登記の申請代理を委託するのは、法律的には契約(依頼者と司法書士との合意)に基づくものです(委任契約ないし準委任契約等)。双方の合意に基づくものですから、通常は一方的にやめる(解除する)ことはできないのが原則です。しかし、委任契約は信頼関係に基づくものですから、双方がいつでも解除できるとされています(民法651条1項)。

ですから、依頼者が司法書士の契約の履行内容等が気に入らない(信頼できない)と思ったら一方的に「代える」(解除する)こともあながち不当とは言えないのです(損害が発生した場合の賠償の問題は別です。同条2項)。一般的な契約法理からも、場合によっては債務(登記の申請)不履行を原因とする解除を主張される可能性も否定できません。

もちろん司法書士側からすれば、依頼者の利益(危険の排除)のために行った提案を理解してもらえず、委任契約を解除されるのは不本意です。しかし、当事者が、危険の存在を認識した上でそのまま取引を続行すると決めた場合(あくまでも取引を続行するかどうかを決定するのは当事者=依頼者であり、司法書士の受任内容は決定した後の登記の手続きのみ)、司法書士にはそれを拒絶する権利はありません。

しかし、あなたが事故発生の可能性が高いと判断しているときに、「司法書士を代える」と言われて「はいそうですか」と素直に引き下がれますか?

続く。

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2022年4月28日 (木)

中盤~終盤

(本日のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

第三段階です。
これは、一応危険の認識があるが、その捜索に消極的である当事者を説得する工程です。

一般的、抽象的な危険の内容については、第一段階で説明済みですので、ここでは実例を示すことが必要です。
例えば、同じような懸念事項があったため、結果的に事故(詐欺などの犯罪やトラブル、訴訟など)になった実例を、できるだけ具体的に説明します。もちろん弊社が直接関わって事故を防止した例が数多くありますので、その例を示すのが最も説得力があると思いますが、当該案件と類似の前例がない場合は弊社の取り扱い例以外のものでももちろん構いません。
とにかく、生々しく説得力のある例示、しかも出来るだけ近い過去の例を出すのが良いでしょう(他社の方には弊社ホームページの「実録不動産トラブル」が参考になるでしょう)。

もっとも、そもそも弊社が戦ってまで危険排除にこだわる(ときに「フクダリーガルは固い」と言われます)のは、実際にそういう危険な事例に遭遇したことが一再ならずあるからなのですが。

さて、それでもなかなか理解を示してくださらない当事者の方もいらっしゃいます。その場合はどうすれば良いでしょうか。

第四段階です。
説得する相手を変えます。
つまり上席の方に話をさせて頂くということです。場合によっては弊社側も上席の者から話をさせて頂く必要があります。めったにないことですが、私が引っ張り出されることもあります(直近では3、4年ほど前)。

要は一歩も引かないことです。

ただ、どうしても納得していただけない当事者(担当者または上席)から「司法書士を代える」と言われてしまう場合があります。

その場合はどうしようもないのでしょうか?

続く。

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2022年4月27日 (水)

序盤戦

(本日のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

いつの間にか「戦う」対象が本来の危険との戦いの意味にまで広がっていますね。まぁ、いいか(笑)
ただ、紛らわしいので、ここで言う「戦う」対象は判断の歪み、即ち正常性バイアスであるということを改めて確認しておきましょう。

さて、経済合理性と懸念要素との兼ね合いから司法書士が「戦う」という判断をしました。
次に、いよいよ「戦い」に移って行きます。

第一段階。
当事者(「良い人達」)にこの懸念要素を伝え、これから推測される危険の内容を説明します。
これによって当事者に、自分たちが「正常性バイアス」にとらわれていること(安全であるという考えが思い込みや判断の歪みであること)に気づくきっかけを与えます。すなわち、危険性に意識を向けさせるということです。ここまでは難しいことではありません。

第二段階。
その危険が真に存在するのか否かを確認することを当事者に提案します。つまり、懸念要素という謂わば状況証拠をきっかけに、危険の存否の直接証拠を捜索することの提案です。
ここから当事者の抵抗が始まります。なぜなら、それは取引を停滞させたり、場合によっては捜索自体を理由に(真の危険がないにも関わらず)取引の中止を余儀なくされるものだからです。これがこの戦いの難しいところです。

そして第三段階。ここからが、司法書士による真の戦いの始まりです。

続く。

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2022年4月26日 (火)

戦う前に

(本日のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

では、どうやって司法書士は「正常性バイアス」と戦うのでしょうか?

戦う方法を考える前に、まず、戦う必要があるのか、を考えなければなりません。
一定の時間と労力を費やしてまで戦う必要が果たしてあるのかどうか。
この判断を行うために必要な材料は二つです。一つが「経済合理性」、もう一つが「懸念要素」です。

まず「経済合理性」。
危険が現実化した場合に被る損害(賠償を請求される損害)の大きさによって戦う必要性の有無を判断するということです。高額物件であればあるほど必要性は高まります。また、高額物件ほど詐欺や不正行為の危険性が高い(狙われやすい)ということもあります。

次に「懸念要素」。
私が行う社内・社外での講演・研修ではこの懸念要素についてお話しします。現在は12個の懸念要素を列挙しています。4月5日の本欄(青山の会についてお話しした回)で共有した講義レジュメをご参照下さい。
それらのうち、当該案件にいくつの懸念要素が該当するかが基準となります。

高額物件で、懸念要素が一定程度ある場合は戦う必要性があるという判断に至ります。

続く。

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2022年4月25日 (月)

「認知バイアス」との戦い

(本日のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「良い人達」(不動産の売買や融資取引を仕事としている方達)に取引が孕む危険性を理解して頂き、調査等に協力して頂くのは「戦い」にも等しい困難さがあります。その大きな原因となっているものの一つが「認知バイアス」です。

「認知バイアス」とは「先入観にとらわれて物事の一側面にだけ注意が向けられ、その他の側面についての思慮が足りない」(※)状態のことです。
ここでいう「先入観」とは、「問題のない取引が大半」(4月13日の「考えること、疑うこと(その3)」)であるため、今回も大丈夫だという意識のことです。
注意が向けられる「物事の一側面」とは、購入や融資の実績を作るという職責、希少な優良物件の場合の売主優位の状況、あるいは急がされる(「怪しい」取引は必ず急がされます)ことによる時間的制約、等々の要因のことです。
そして思慮が足りなくなる「その他の側面」が、その取引に潜む危険です。

この場合の「認知バイアス」は「正常性バイアス」とも言われ、大半の人が陥るものでもあります(非常ベルがなっても大丈夫だと思った経験は大多数の方がお持ちだと思います)。
つまり、私達司法書士が「良い人達」に取引に潜む危険に目を向けて頂く努力は、正しく「正常性バイアス」との「戦い」であり、それは誰もがとらわれるものであるからこそ非常な困難を伴うものなのです。

もちろん、これまで私達フクダリーガルはこの戦いに勝利して理解を得、危険を除去できたことが大半なのですが(結果的に「良い人達」からはもちろん感謝されます)、稀に理解を得られず、仕事の依頼を断られることもあります。その場合、継続された取引では(私達が知りうる限りでは)必ず事故が生じています。

司法書士はこの戦い方も学ぶ必要があるのです。

ではまた明日。

※鈴木宏昭「認知バイアス 心に潜むふしぎな働き」(講談社ブルーバックス)p.4

 

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2022年4月24日 (日)

味方同士の戦い

(本日のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日は不動産取引の登場人物を(勧善懲悪もののドラマ風に)人を騙す「悪い人達」とだまされる「良い人達」に図式化し、私達司法書士は当然「悪い人達」と戦う(悪い人達から良い人達を守る)立場だが、私たちの戦う相手は実は「悪い人達」ばかりでなく、「良い人達」でもある(「味方」同士で戦う必要がある)と申し上げました。
どういうことなのかご説明しましょう。

「良い人達」の多くは不動産の売買や融資といった取引を成立させ完了させるのを仕事としている方達です。そして、私達司法書士の仕事も最終的には同じことを目的としています。
ただ、仕事の重点の置き方が少し違います。「良い人達」にとっては、なにはともあれまず取引を成立させることが大事です。司法書士はそれが安全に問題なく(後々トラブルにならないように)行われるものか(何らかの危険性を孕んでいないか)をまず確認することが重要な職責です。

従って、私達は早い段階で当該取引の安全性に疑いを持ち、それを更に調査し、場合によってはその危険を除去しなければなりません。そして、それを行うためには「良い人達」に危険性を理解し、調査・除去に協力して頂くことが必要です。なぜなら、調査や除去には当事者・関係者の方々に対し(通常取引とは違った)労力、時間の負荷を課す可能性が高いからです。

しかし、「良い人達」に理解し協力して頂くのは実は案外難しいことで、それを実現するための努力は「味方同士の戦い」と言って良いほどなのです。

続きは明日。

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2022年4月23日 (土)

「良い人達」と戦う

(本日のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「地面師と新・中間省略登記」という題目での講演を行ったことは先日お伝えしました。
「新・中間省略登記が図解で分かる本」の改訂版を昨年末出版したことがきっかけで講演の依頼を受け、2つの講演が終わりましたが、残念ながら受けが良いのは「地面師」の方でした(講演参加者から同題目での新たな講演の依頼もありました)。

地面師に象徴される不動産トラブルをどう防ぐかは、司法書士の重要な役割である「予防法務」の中心的な課題です。先日のこの欄(4月13日の「考えること、疑うこと(その3)」)で、「問題のない取引が大半」であり、地面師など問題のある取引についても「回避する手段がある意味確立している」とお話しましたが、この「回避手段」こそ予防法務を実践する私達フクダリーガルのノウハウであり、私の講演の内容でもあります。
そしてこれは言い方を換えれば(勧善懲悪もの的に図式化すると)地面師を始めとする「悪い人達」と「戦う」ための手段です。

しかし、実は私達が戦う相手は「悪い人達」だけではないのです。むしろそちらの相手との戦いの方がやっかいかも知れません。
それは、「悪い人達」にだまされる(被害に合う)側の「良い人達」です。その多くは私達に登記を依頼して下さる不動産会社や金融機関の担当者の方達です。

「良い人達」は不動産や金融の取引を問題なく成立させ完了させることを仕事とするプロフェッショナルです。私達司法書士も、取引を問題なく成立させ完了させることを仕事としています。つまり、私達司法書士と「良い人達」とは同じ方向を向いた、「味方同士」のはずです。

ではなぜ「味方同士」が戦う必要があるのでしょうか(これは、ある程度経験を積んだ方であれば切実に感じていることだと思います)。

この続きはまた明日。

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2022年4月22日 (金)

敬意と親しみ

(本日のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

フクダリーガルでは、弊社にとって「お客様」の立場にある方に対しての敬称は「さま」を使わなければならないと定めています(「フクダリーガルの教科書」)。
では、「お客様」とは(これ自体が敬語を含みますが、要は「客」とは)何でしょうか?

国語的な意味では、「客」とは①「もてなされる人」②「たずねてくる人」③「ものを買ったりサービスを受けたりしてお金を払う人」ということになります(三省堂国語辞典第七版より)。
私がこの「さま」ルールを定めたときに想定していたのは、私達に仕事を依頼してくださる方、つまり③の意味でした。
しかし、礼儀正しさを示す必要があるのは「お金を払う人」に対する場合だけではありません。①や②の意味の方に対しても敬称は「さま」とすべきです。

さらに、フクダリーガルの教科書では、「お客様に対する敬称は『さん』ではなく『さま』」としています。これは示す敬意の高さの違いです。
私達が一般に使う敬称を敬意の高さの順に並べるとすると、高い方から「さま」ー「さん」ー「くん」ー「ちゃん」ということになるでしょう。
つまり、フクダリーガルでは「客」に対しては最上位の敬意を払うべし、ということです。

しかし、高い敬意を示すほど、「親しみ」は薄くなり、所謂他人行儀にはなります。
ですから、対象となる相手や会話の相手との関係性あるいは場面(公的か私的か)の相違によって、敬称の選択は違ってきてしかるべきです(この点はフクダリーガルの教科書には書いてありませんが、例えば「さん」は敬意と親しみを双方バランスよく表現できると言えるでしょう)。

また、「敬称を使うべき全ての場面(文脈)」とも言いました(昨日の「『さま』は対等か」)が、「客」にたいしても敬称を使う必要のない場面(呼び捨てにすべき場面)があります。
それは、その「客」の(社会的)役割や果たす機能に着目して客観的に述べる場合です。例えば不動産の売買契約の概要を登記業務の内容として社内であるいは第三者に対して説明する場面で、「売り主は鈴木一郎、買い主は佐藤建設です」などと言う場合は敬称を付す必要はありません。

ではまた明日。

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「さま」は対等か

(昨日のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

フクダリーガルの教科書では「お客様の敬称は、法人でも個人でも、『様(さま)』である。」と規定していますが、これは「人と人とは本来対等である」(だから「こんにちは」も失礼ではない)との主張と矛盾するのではないか、という疑問が生じます。

たしかに「さま」を、相手の社会的役割を自分よりも上位に捉えていることの表現と考えるなら、「対等」な相手に「さま」を使うのはおかしいということになります。
しかし「さま」に限らず、敬称、そして敬語は、(昨日お話したように)相手を自分より上にみるということだけではなく、対等であっても礼儀正しさを示す必要があると考えている(礼を尽くす)ことの表現でもあるのです。
つまり、対等と捉えている相手に対しても礼をつくしていることの現れとして「さま」を使うということです。

みなさんもいろいろな場面で「◯◯さま」と呼ばれたことがあると思いますが、これは決してそう呼んだ方達がみなさんを「上」(あるいは彼ら自身を「下」)として捉えているからではなく、礼を尽くしてくださっているということだと思うのです。

礼儀とは「きちんとする」ことですから、相手との関係性や場面によって変わってきます。きちんとすべき相手なのか、きちんとすべき場面なのか。
そしてどんな相手や場面ならきちんとしなければいけないのか、はその社会や共同体のルールで決まってくることが多いと思います。

そういう意味で、フクダリーガルでは関係性について、弊社にとって「お客様」の立場にある方に対しての敬称は「さま」を使わなければならないと定めています。
一方、どんな場面で「さま」を使うべきかは明記しておりませんが、言ってみればそれは、敬称を使うべき全ての場面(文脈)において、ということになります。

では、「お客様」とは? 「お客様」以外の場合はどうなのか?

それはまた明日。

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2022年4月21日 (木)

「こんにちは」は失礼か(その2)

(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日は、「こんにちは」や「こんばんは」は敬語として「使いづらい」と感じることもあるかも知れないが、使ってはいけないという積極的な理由は見当たらない、むしろこれら自体が敬語的表現なのではないかという話をしました。

今日はこれらが敬語かどうかという議論とは少し違う角度で考えてみます。

敬語とは、相手の「社会的役割」(4月15日のこの欄で「立ち読み」した村上陽一郎さんの「エリートと教養」から頂いた用語です)を前提とした言葉遣いです。

つまり、敬語は、相手の社会的役割を自分がどう捉えているかを態度として表したものです。すなわち、相手の社会的役割を自分より高く見ているのか、高く見てはいないが、礼儀正しさを示す必要があると考えているのか、の表現です。

その点、「こんにちは」「こんばんは」は人から社会的役割というものを捨象して考える(村上さん流に言うと「一つ一つ引き剥がしていく」)ことができる言葉遣いなのではないでしょうか?
言い換えれば(昨日お話した)「人と人とは本来対等である」という考え方に基づいた言葉遣いであるという考えです(それぞれの言葉の由来・語源から考えるという手法もありますが、私は現在生きている言葉に私なりの意味付けをしたいと思います)。

以上2つ(あるいは3つ)の観点から、上司やお客様に対して「こんにちは」「こんばんは」と言っても全く失礼ではないと考えます。
これは私の考えであり、違う考え方もあると思います。しかし、少なくともフクダリーガルでは誰に対しても「こんにちは」「こんばんは」で良いですし、「お疲れさま」はねぎらいの場面でしか使ってはいけないものとしておりますので、フクダリーガルのみなさんにはそのルールに従って頂きたいと思います。

もちろんどんなルールも合理性がなければ(なくなれば)改めなければなりません。
しかし、これまではこのルールの合理性を疑わせるだけの説得力のある意見は寄せられていません。
みなさんのご意見(特に、このルールをひっくり返すような、私の考えを叩きのめすようなご意見)をお待ちします。

ところで話は少し変わりますが、フクダリーガルの教科書では「お客様の敬称は、法人でも個人でも、『様(さま)』である。」と言っています。
このルールは上記の私の考え方に反すると思いませんか?

それはまた明日。

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2022年4月19日 (火)

「こんにちは」は失礼か

(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日は、「お疲れさま」は挨拶の言葉ではない(労いの言葉)のだから、挨拶をすべき場面では使うべきでないこと(フクダリーガルではその様に定めていること)、そしてこの原則に対する一部の方達の反応を通して見えてきたことをお話しました。

今日は、もう一つ、「お疲れさま」について見えてきたことについてお話します。

「お疲れさま」を「挨拶」として使うという方達の根拠は、「ずっと使って来たから」「みんな使っているから」「普通使うから」(これらの理由が説得力がないのは置いておきまして)の他に、(いわゆる)「目上」の人(年嵩の人、役職上位の人等)に対して使いやすいからということがあるのではないでしょうか?
これは芸能界や飲食業の世界(の一部)で昼夜問わず「おはようございます」を使う慣習(?)があることとも共通するのではないかと思います。

つまり、「お疲れさま」は、「です」という接尾語をつけて敬語(丁寧語)として使える(そもそも「さま」という敬語的表現を含んでいる)のにひきかえ、「こんにちは」や「こんばんは」はそれができないため、目上の人に対してや改まった場では使いにくいのではないか、ということです。

しかし、「こんにちは」や「こんばんは」はそもそも敬語に変換する必要がない、言い換えればそれ自体が敬語的表現であると言えるのではないでしょうか。

「こんにちは」や「こんばんは」が敬語として使いづらいと感じる方がいるとすると、その理由は、それこそその方の周囲では「こんにちは」「こんばんは」を目上の方への挨拶として「ずっと使って来なかったから」「みんな使っていないから」「普通使わないから」という説得力のないものでしかないのではないでしょうか。

続きはまた明日。

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2022年4月18日 (月)

「挨拶」を疑う

(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

フクダリーガルの「挨拶」に関するルール(「フクダリーガルの教科書」搭載)には、その根底に私自身の最近のこんな考え方があることに気が付きました。

「人と人との関係は、基本的に年齢や、地位、肩書きにとらわれることなく、対等と考えるべきである。お互いに相手を敬う気持ちは必要であるが、それは上下の関係から生まれるものではなく、むしろ対等な関係から生まれるものである」

「フクダリーガルの教科書」には、挨拶は「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」を基本的なものとしてあげています(その他場面に応じた例として「行ってきます」や「行ってらっしゃい」など)。
そして、強調しているのが、「お疲れさま(です)」は「労いの言葉」(例えば一日の仕事が終わった人にかける言葉)であり、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」を使う場面で使う言葉ではないとしている点です。
つまり「お疲れさま」は「挨拶」の言葉ではないので「挨拶」につかってはいけないということです。

私は当初、挨拶の言葉でないものを挨拶に使わないのは当たり前のことだという考えからこの決まりごとを作ったのですが、これを推し進めていく中で色々面白いことに気がつきました。

例えば、この決まりごとに初めて接した人達から、「私は何年もお疲れさまですという挨拶をしてきたので、それを使うなというルールには違和感がある」、とか、「お疲れさまはみんな挨拶としてつかってますよ」、とか、「普通使うんじゃないですか」、という声が聞こえて来ました。
こういう意見を言う方達に対して私が聞きたいのは、長年使ってきたからとか、みんな(とは誰のことかわかりませんが)が使っているからとか、普通(これもなんだかわかりませんが)使うから、ということ以外にそれを使う積極的な根拠があるのですか?ということです。
これらが物事を決める根拠としては極めて薄弱で説得力に欠けるということはみなさんにわかって頂けると思います。
こういう根拠付けは挨拶に限らず、決まりごとや法律や指示や命令に接したときに、それらを疑わずに盲従する態度・習慣につながるもので、気をつけなければいけないことだと思います(常々お話していることですが)。

そしてもう一つ気がついた面白いことは、また明日。

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2022年4月17日 (日)

人は対等

(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

敬語に関して私が特に最近気になる場面には2種類あります。一つは使われている敬語そのものが気になる場合。もう一つはそもそも敬語(中でも特に丁寧語)を使わないことが気になる場合。
昨日は前者についてお話ししました(所謂「バイト敬語」)ので、今日は後者についてお話しします(昨日は「よかれと思う気持ちがない場合」という言い方をしています)。

丁寧語を使わないことが「気になる」というのは、「そこは丁寧語を使うべき場面だろう」と考える、ということなのですが、丁寧語を使うべき場面であるかどうかの基準の問題となると難しい話になってしまいそうですので、具体的に私がどんなことが気になるのかをお話します。

それは、(主に職場内で)年齢や役職(職場での地位)が自分より「下」だというだけで(場合によっては初対面であるにもかかわらず)丁寧語を使わず相手を下に置いたような言葉遣いをし、敬称も「さん」でなく「クン」づけで呼ぶ、などです(その時も女性に対してだけは「さん」づけで呼びます。これはこれで敬語とはまた別の問題を孕んでいるように思えますが、それはまた別の機会に)。
こういう言葉遣いはむしろ当たり前で、なんの問題も感じていない方が大半でしょう(気にする必要もないのかも知れません)。私自身もそうでしたから、(人に対してそれを指摘することはせず)まず自分から変えたいと思い、実践をはじめました。例えば特に会議など公(第三者を交えた)の場で、部下や、若い方に対する場合でも、できる限り丁寧語を使うようにし、敬称も「さん」とするように心がけはじめました。

私がこのように自分の言葉遣いを変えようと思っているのは、人と人との関係について、あることに気がついたからです。
それは、「人と人との関係は本来、年齢や、地位、肩書きに関係なく、対等である。対等な者同士は、お互いに相手を認め合い敬い合う気持ちを持つことが必要である。」ということです(吉川英治が「我以外皆我が師」と言っていたのを今思い出しましたが、これとはまた少し違う議論です)。

これに関連して、フクダリーガルの「挨拶」に関するルールも、実は根底には同じ考え方があることに気が付いたのです。

それについてはまた明日。

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2022年4月16日 (土)

気になる敬語

(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日「立ち読み」をご紹介した「エリートと教養」はまだ買っていませんが、「気になる言葉遣い」について、もう少し考えてみました。

私が「気になる」言葉使いの典型は「敬語」にまつわるものです(同書の評者の方が「日本語の乱れ」とおっしゃっているのはもっと広い範囲のもののようですが)。
そして「気になる」の中身は「違和感」や「不快感」を感じるということです。
また、同じ「気になる」場面でもその言葉を使っている人が良かれと思って使っている場合(敬語として使っている場合)と、そもそも良かれと思う気持ち(気遣い)がない場合(敬語を使う気持ちがない場合)とがあります。

当人が良かれと思って(敬語として)使っているが「気になる」ものとしては所謂「バイト敬語」があります。例えば「こちらが本日の議題になります」「弊社がご用意するという形です」「打合せの場所は弊社の方です」などで、敬語として使われていますが、私は違和感を感じます(それで「フクダリーガルの教科書」にも載せています)。
それぞれ「・・議題です(でございます)」「・・ご用意いたします」「・・弊社です(でございます)」と言ってもらえれば気になりません。

同じバイト敬語でも違和感を通り越して不快感を感じるのは、例えば、飲食店や物販店舗で商品◯◯を持ってきたときに「はい、こちら◯◯ですねぇ~」などと言われたときです。
バイト敬語以外で気になるのは、会話中に相槌として、「はい」ではなく「ええ」(良かれと思っている)「うん」(良かれと思う気持ちがないかおそらく無意識)と言っている場合などです。

ただ、なぜこれら(特にバイト敬語)が気になるのか、を論理的に説明しろと言われるとなかなか難しいことになってしまいます。今言えるとしたら、これまで私達が使ってきた言葉遣いと違うから、なのですが、これではさんざん批判してきた「前例踏襲主義」と何ら変わりません。
この点はもう少し考えます。

さて、「良かれと思う気持ちがない場合」については、また明日。

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2022年4月15日 (金)

エリートと教養

(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨日株式会社ゲイトさまの「凄い」ペットフードを受け取られた方々、是非ワンちゃん猫ちゃんの「感想」を聞かせてくださいね。

さて、科学史家、科学哲学者(東京大学名誉教授)の村上陽一郎さんの「エリートと教養」(中公新書ラクレ)という本を、読売新聞の書評欄で見つけ気になったので「ネット立ち読み」(総合書店honto)をしてみました。
その中で非常に印象に残った一文がありますので、そのまま引用(貼り付け)します。著者が「教養」について書いている部分です。
〈ちょうど玉ねぎの皮むきのように、「自分」から、自分が引き受けている社会的役割を、一つ一つ引き剝がしていったとして、最後に何が残るでしょうか。いや残るものがあるでしょうか。私は「ある」と答えたい。そして、その最後に残るべきものを、自分のなかに見付け、それを耕し、それを育てる、それを自分が生きた証としようと努力を重ねる。そこに「平等」を超えた一人一人の人間の姿があり、その努力をこそ「教養」と呼ぶのではないでしょうか。〉
自分は、自分から社会的役割(著者はその例として、生徒、学生、会社員、教師、妻、夫、そして男、女、などを上げています)を剥がしたら残るものがあるのか?
この問はこのあとまだ少し(あるいは案外長く)続く自分の人生の一つの課題になるかもしれないな、と思いました。
みなさんはどうお感じになりましたか?

ところで、私がこの本が気になった理由は、書評(同紙特別編集委員の橋本五郎さん)の見出しに「日本語の乱れ 警醒の書」とあったからです。
私もどちらかといえば日本語の乱れが気になる方です。「フクダリーガルの教科書」にも少しそういった類のことが書いてありますし、気になる言葉遣い(所謂バイト敬語など)に接したときは「指摘」したりもしています。
ただ、時々自信がなくなります。私の気になる言葉が多くの場面で多くの方に使われていることがよくあるから、というばかりでなく、なぜその言葉遣いが気になるのか、説得力のある説明ができないものも多いからです(ですので「指摘」の仕方も、「そういう言葉遣いを不快に感じる方も少なくないと思う」などといった腰の引けた言い方になります(笑))。
そこで、本書でその根拠が見つけられる(自分で考えたり調べたりする労力が省ける)のではないか、と思ったわけです。「立ち読み」ではそこの部分までは読めませんでしたので、是非購入して(アマゾンでなくhontoで取り置きをしてもらって)読んでみようと思います。

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2022年4月14日 (木)

考えること、疑うこと(その4)

(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

「考える習慣がなくなっても問題なく仕事ができるのであれば、考える習慣は必要ないのでは?」というのも一つの考え方です。

登記手続きを安全・円滑・迅速に進めるためには多くの知識や技術が必要です。有能な司法書士はそういった知識・技術をしっかり身に付けた司法書士です。
そして、それらの知識や手続きについて考えたり疑ったりしていては、膨大な登記申請を迅速・正確に処理することはできないのも確かです。
また、考えずに問題のない仕事を迅速に行えるのであればそれは効率が良く生産性が高い仕事であるといえるでしょう。
ただ、それは現在のしくみが最適なものであることが前提です。
しかし、現在のしくみや登記手続きの進め方が最適なものであり未来永劫かわらないとはとても考えられませんし(10日の本稿「SFと問題解決」に書いたことはずいぶん先のことかもしれませんが)、科学や経済を巡る技術や理論の進歩とともに登記制度や手続きの在り方も常に進歩させていく必要があるはずです。
そういった要請に対応し、改革を進めていくために最低限必要なもの、それは既存のしくみを疑うこと、自分の頭で考えることなのです。
また、司法書士の仕事は手続き代理だけではありません。否、むしろ手続き代理以外のところに司法書士の本質、私たちが提供するサービスの本質(司法書士だからこそ提供できる価値)があるのです。
ただ、ここには難しい問題が立ちはだかっています。
これについてはまた別の機会にお話したいと思います。

 

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2022年4月13日 (水)

考えること、疑うこと(その3)

(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

昨夜、みつ葉グループさまのご依頼で講演をさせていただきました(内容は先日の青山の会さまと同じく「地面師と新・中間省略登記」)。60名程の不動産事業者の方々にご参加いただいたとのことでしたが、zoomでの講演で受講者の反応が全く分からず、対面とは異なるやりづらさがありました。

では、昨日の続きです。

司法書士が日常的に扱っている登記手続きの殆どが「問題がない」とは、何を意味するのか?

昨日、司法書士は実体関係の成立には責任を追わないという考え方(社会の評価)はある裁判例を機に変わってきたはずだ(そう願う)と申し上げました。
この裁判例(東京高裁平成27年 4月28日判決)は「登記申請意思の真実性に疑念を抱かせるに足りる客観的な状況がある場合には,これらの点について調査を尽くし,上記の疑念を解消できない場合には,依頼業務の遂行を差し控えるべき注意義務を負っている」と言っています。
これは、司法書士が実体関係にも一歩踏み込んで判断をすべきとした画期的な判決だと思うのです(敗訴した司法書士には気の毒ですが)。
しかし一方で、取引の大半が問題のないものであり、さらにそれ故、司法書士は関係当事者から「滅多にないことなのだからうるさいことを言う必要はないのではないか」という圧力にもさらされています。
こういう環境は、司法書士が考える習慣を失う方向に働きます。

ところで、なぜ問題のない取引が大半だと言えるのでしょうか?
それは、一つには現在の不動産取引が一定の確立した法制度(民法等の実体法や登記法などの手続法、宅建業法などの当事者保護法)の下で、一定の遵法精神のある人々によって担われているため、問題のある取引そのものが少なくなっているからです。
もう一つは、数少ない地面師など「問題のある」取引についても、(少なくともフクダリーガルでは)回避する手段がある意味確立していると言ってもよいからです。皆さんはフクダリーガルが地面師の被害に会うとは考えられないのではないでしょうか(それが「認知バイアス」を生み被害の原因ともなることー青山の会や昨夜の講演で話したことですーは置いておいて)。

そうすると、むしろこれは、余計なことを考えなくても問題なく仕事ができるということだから、考える習慣など不要ではないか、という話になります。確かにそれも一つの考え方です。

(続きは明日)

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2022年4月12日 (火)

考えること、疑うこと(その2)

(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

(昨日からの続き)

昨日お話しした、「司法書士が置かれてきた環境」を一言でいうと、「司法書士の仕事は決まったことを手続きするだけのものだから、決まったことについて責任はない」という評価です。訴訟でも、司法書士に損害賠償責任を問わない(あるいは極めて少ない責任割合)とする判決理由にそういう趣旨のことが書かれていました。
こういった社会的評価は、数年前のある上級審の裁判例を機に変わって来たはずですが(そう願います)、長い間こういう環境下にあった司法書士の姿勢は容易には変わらないのではないでしょうか?
司法書士は手続きに長けていればよいのであり、手続きのこと以外は考えなくてよい、という事です。そして、手続きに長けたベテラン司法書士は、手続きのことすら考えなくても仕事ができてしまうようになります(極端な言い方かもしれませんが)。つまりうかうかしていると考える習慣がなくなる危険性があるのです。
ベテランでなくても、日常の定型的な業務に流されていると、考える習慣がなくなる恐れがあります。

さて、考える習慣を失わせる危険性を孕む、もう一つの「司法書士が置かれてきた環境」とは何でしょうか?

それは、司法書士が日常的に扱っている登記手続きの殆どが「問題がない」ことです。例えばフクダリーガルでは昨年約3万件の登記申請手続きを行いましたが、問題(法的問題)があるとして私のところまで上がって来たものは皆無でした(多い年でも2~3件です)。
これは何を意味するでしょうか?

(続きは明日)

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2022年4月11日 (月)

考えること、疑うこと

(フクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

私は日頃皆さんに、自分の頭で考えて欲しい、ものごとの意味を考えて欲しい、上司の指示や会社のルール、そして法律の趣旨を考え、疑って欲しい、と言い続けています。そのようなことをことさらに言い続ける背景には、私たち司法書士が長らく置かれて来た環境があります。
私たち司法書士の仕事の主要な部分を占めるものに「登記手続の代理」があります(司法書士法3条1項1号)。
不動産登記の場合の「登記手続」とは、不動産の売買や融資に関する契約(売買契約・金銭消費貸借契約・抵当権設定契約)などの法律行為によって発生した法律効果=物権変動(所有権移転や抵当権の設定など)の内容を登記簿に反映させるための手続を言います。
この法律行為(前提としての経済取引)の内容(不動産の売買/担保設定についてどれを、いつ、誰に、金額は、といったこと)を決めるのは当事者(売主、買主や金融機関)の仕事ですが、つい最近まで司法書士の仕事は基本的に確定した法律行為(法律効果)の内容をそのまま登記簿に映しだすことであり、その決定に直接関与する仕事ではないと考えられてきました。
そう考えていない司法書士もいたでしょうが、少なくとも社会的にはそう考えられて来ました。登記された不動産について、前提となる法律行為の内容に問題があって訴訟になった場合でも司法書士がその責任を問われることは極めて少なかったのです。
これが「司法書士が置かれてきた環境」の一つです。

(続きはまた明日)

 

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2022年4月10日 (日)

SFと課題解決


(フクダリーガルの社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

本題の前に、昨日の記事(士業と生産性)について少し補足を。

昨日、国会や士業の仕事が非営利だから(と考えられたから)生産性が軽視されて来たのではないかという趣旨のことを書きました。確かにそういう側面はあると思いますが、それが全てではありません。生産性という概念自体は営利性が前提になるものではないからです。生産の「産」の字が「産業」即ち営利事業を連想させますが、「生産」自体は必ずしも営利を伴うものだけではないのです。「生産性」は何かを「作り出す」局面全てにおいて想定できる指標なのです。
因みに生産性の定義について日本生産性本部は「『生産性とは、生産諸要素の有効利用の度合いである』(ヨーロッパ生産性本部)」としています。
つまり国会や士業で生産性が軽視されてきた理由は非営利性以外にもあるという事です。これについてはまた別の機会に書きたいと思います。

さて、本題です。

1月の朝礼で、「マンションが欲しい」と思ってから数十分で購入が完了してしまう様子を「やがて来る時代の不動産取引」としてお伝えしました(後掲)。
これは現時点ではまだ空想の話、つまりSFの世界であり、何を突拍子もないことを言っているのだと思う方もいるでしょう。しかし、今まで実現されて来た技術やしくみは、全てSF等で人類が想像し、構想していたものなのではないでしょうか?
そして、現在自分たちが行っていることの延長線上に未来を描く(フォアキャスティング)よりも、それを一旦捨象して、こうあるべき、こうなりたい、という未来を描いて、それをどう実現するかを考える(バックキャスティング)ことの方がよほど楽しくはないでしょうか?
すくなくとも私は、そういう未来を実現するためには現在をどう変えていけば良いかと考えることに仕事のやりがいを感じます。
もちろん目の前の課題を解決していくことは重要な事ですが、より遠い未来に視点をおき、課題解決はそれを実現するための手段だという認識の上で行うことで、課題解決がより意義のある、それこそ生産性の高いものになるのではないでしょうか。
だからフクダリーガルの基本理念は「未来を創る」なのです。

★ここに書いた様な発想は「SFプロトタイピング」とか「SF思考」という呼び方で近年流行っています。

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(1月朝礼より)

ーやがて来る時代の不動産取引ー

これは未来の不動産取引(売買)の姿です

20XX年XX月XX日、鈴木一郎さんは居間のソファでくつろぎながら、「春さん、ワンルームマンションが欲しいな」と頭のなかで思い浮かべました。
すると春さん(人工知能)から「目的は、予算は、場所は・・・」という質問が脳内に送られましたので、やはり脳内でそれぞれの質問に答え、最後の質問「いつにしますか」には「準備でき次第すぐ」と答えました。
・・・・
数十分後に春さんから「購入完了しましたよ」と言われ、マンションの映像や登記事項が直接脳内に投影されました。
これで取引は完了です。

この間に行われたのは以下の手続きです。

(略)

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2022年4月 9日 (土)

士業と生産性


(今朝のフクダリーガル社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

3月の朝礼で、国会の前例主義に凝り固まった姿から、フクダリーガルの使命(「世の中のしくみを変える事によって世界を合理的で効率的な楽しい世界に変えて行く」)は前途多難と感じたと述べました。

現在、日本の生産性は世界的にみるときわめて低い位置にあります(OECD加盟38カ国中23位、先進7カ国中最下位)。これを上げていくには「世の中のしくみ」を変えていく必要があるのですが、最近の一連の動きから「国会の生産性」はどうなのか、という疑問が生じたわけです。
国会の生産性を民間と同様に考えることはできないかも知れませんが、少なくともリモート会議に否定的だったり、前例に固執して新しいことを行えない姿勢からは決して生産性が高いとは言えないでしょう。今回のウクライナ大統領の議会演説の対応を諸外国と比較しても、民間同様先進国中最下位かもしれません。
それでは私たち司法書士業界の生産性はどうなのでしょうか?そしてフクダリーガルの生産性は?
司法書士に限らず士業の世界では、自分たちの仕事は営利事業ではないとする考え方が伝統的にあり(報酬の領収書に印紙が不要というのはその現れでしょう)、国会同様生産性が重視されることは少なかったのではないかと思います。
一方で士業も、例えば独占禁止法(「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」)が適用される(公正取引委員会により報酬規制や広告規制が撤廃)等、サービス業としての位置づけも明確にされています。
また、どんな営利企業も(投資基準にESGの要素が重視される様に)公益的な側面を有することが最近ますます求められる様になってきています。
いずれにしても士業にとって生産性という概念が重要であることは間違いがないと思います。

私たちはこういった観点からも、自分たちの「生産性」について考えてみる必要があると思います。

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2022年4月 8日 (金)

経験と想像

(今朝の社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

私の講演(5日のYNGー「よしなしごと」笑ーでご報告)に参加して下さった若手社員の方から、その感想を聞く機会がありました。とても勉強になったとのことでしたが、それに対する私の答えがいけませんでした。
確か「経験しないとわからないこともあるよね」と答えたと思いますが、これはちょっと不適切な言い方でした。
「経験しないとわからない」では日頃私が「自分の頭で考えろ、想像力を働かせろ」と言っていることと正反対の話になってしまいます。
経験していないこと、初めて遭遇することに対処することができてこそ一人前のプロフェッショナルです。
ですから、「経験しないとわからない」ではなく、「経験しなくてもわかる」でなければなりません。
もし彼の感想に対して何か言うのであれば、「経験が理解を加速する」とでも言うべきでした。
昨日のコーヒー豆の話や4日の話の、「失敗することで学ぶこともある」とも通じると思います。
Sさん、失礼しました。
尚、「想像すること」と「憶測すること」は全く違うことです。この点も日頃から事あるごとに言っていることではありますが、ここ(YNG笑)でもいつかお話ししましょう。

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2022年4月 7日 (木)

中国のコーヒー

(本日の社内ブログ「福田龍介のよしなしごと」より)

私は毎朝コーヒーを500CC淹れ、ポットに入れておいて仕事中に飲みます。
コーヒーは私にとって活力源であり、緊張を解きほぐしてくれる、仕事に欠かせないものです。
以前はコーヒー豆にさほどこだわりはありませんでした(せいぜい酸味が強いもの、という程度)が、ある時世の中には薫り高く非常に美味なコーヒーがあるのだということをものの本で知り、そういうものを探すようになりました。
最近は巣鴨の(自家焙煎の)店で買っています。 それまでに自家焙煎の店は何軒か試してみましたが(九段下にも複数拠点の店がありますね)、少しずつ理想のコーヒーに近づいてきたような気がしています。
この巣鴨の店ではこれまで3回ほど買いました(毎回異なる種類を2種類計400g買って2週間ほど持たせます)が、直近に買ったコーヒーが予想以上に美味しくて、小さな幸せ(?)を感じています。癖は強いのですが非常に甘く奥深い香りがします。
それが南米産でもアフリカ産でもなく、中国産のコーヒー豆なのです。「 雲南天空農園」という名前がついています。お店のご主人に言わせると、そもそも中国産には美味しいものはないのだが、これだけは例外なのだとか。
コーヒーも、自分の足で探して失敗を重ねなければ自分の好みにあった美味しいものを見つけ出すことができないのかも知れません。
それにしても自家焙煎のコーヒー豆店(小規模単独店)のオヤジさんは頑固な方が多いです(笑)

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2022年4月 5日 (火)

失敗論

(昨日の社内発信「福田龍介のよしなしごと」より)

今朝は、昨日の日本経済新聞朝刊(28頁文化面)に沢木耕太郎さんが書かれていたコラムから。

このコラムの終盤で沢木さんは「私がもったいないと思うのは、失敗が許される機会に、失敗をする経験を逃してしまうことなのだ。」と仰っています。

ここで沢木さんが仰っている「失敗がゆるされる機会」とは、ちょっとした個人的な旅行のようなことを指しています。

そういう機会でも最近の若者は失敗を恐れて、ネットで検索して正解を見つけてから行動すると言います。

私自身も例えば「飲み屋」の開拓は「足」で行って来ましたが(神楽坂が私の「本拠地」になったのもそうしてです)が、最近は自分もネット情報を利用することも増えたことに改めて気づかされました。

沢木さんはこう続けます「人は、失敗することで、大切なことを学ぶことができる。失敗に慣れておくこともできるし、失敗した後にどう気持を立て直すかの術を体得できたりもする。」

先月の朝礼で私がお話しした「ミスが人生にもたらす意味」とも共通するものがあると感じて、ご紹介しました。

ところでコロナ以来私は原則禁酒しており、もちろん飲み屋さんの開拓どころか飲みにいくこともありませんので念のため。

記事の電子版URLはこちらです(有料会員限定)

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO59610030R00C22A4BC8000/

 

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